昔、西大寺の叔父・叔母(妻方)の所へ通っていた、百間川より383号に出て、大多羅の交差点を手前の左折、山際に向かって進む。狭い線路の下をくぐり、坂道を登って行く。地図で見ているより、登る必要あり。坂道の途中に表示がある。初めてなので分からなかったがこの道を入っても車を止められ、また、直ぐ上に駐車場があった。
布勢神社
鎮座地:岡山市東区大多羅町541
由緒:当社は宝亀2年(771)8月勧請し創建された。社伝によると本国総社本に正三位布施大明神と記載され、備前国式内外古社128社の1社であると伝えられている。寛文6年(1666)池田光政の神社整理の政策によって、薬神寺が廃寺となり元の社格に復した。正徳2年(1712)綱政は71の寄せ宮の内、社殿の荒廃した66社と当社の句々廼馳神社を拡張して統合した。大正5年11月11日境内の句々廼馳神社と藩制改革際寄付米が廃止され社殿が荒廃したので本社に合祀した。大正7年4月26日境内に祀られていた益野の氏神である八幡宮が合祀された。
御蔡神:大己貴命、句句廼馳神、軻遇槌、埴安姫命、罔象女命、金山彦命、足仲彦命、譽田別命、息長足姫命
大多羅寄宮跡に行くつもりなら、その途中であり、簡単?
境内は結構広く、種々の神社も祭られている。
元の道へ戻り、383号、28号を東へ、両備バスターミナル横を左折北上500mで広い道に(バイパスからの道?)出るので右折、100m東が登り口、岡山学芸館北西隅あたる。この神社も意外と高い位置にある。
金山八幡宮、通称名:金山様
鎮座地:岡山市東区西大寺上1-19-10
由緒:創建年代、由緒等不詳。昭和22年12月22日火災にかかる。
御蔡神:仲哀天皇、素盞嗚尊
西大寺駅前まで東へ進み、右折して南にある中国銀行西大寺支店を目指す、銀行の北側、駐車場の北東辺り
山口神社
鎮座地:岡山市東区西大寺中3-11-12
由緒:創建年代不詳。礒屋(山口氏)が周防から当地に移住した時、その御祭神を奉斎した神社といわれている。
御蔡神:素戔嗚命、玉依姫
非常に小さな神社で街中でもあるので探しにくい、岡山県神社庁の地図も記載位置が少し違っている。
元の広い道に出て、観音院口左折、吉井川に出て160m程北へ当然で観音院の大きな仏閣、駐車場が見える。西大寺観音院の南西隅、通常日なので当然ガラガラである。
恵美須宮
鎮座地:岡山市東区西大寺中3-12
由緒:約300年前に兵庫県西宮の戎神社から分祀しされ奥様と大黒様とをおまつりした由緒あるお宮です。もとは本町の繁華街の四辻の中心にあって「おえべつさま」として人々に親しまれ境内にあった樹齢500年の「いざり松」と共に有名でした。お二方の神様は家々に財宝と平和とを授ける神様として信仰が厚く、毎年9月9日の秋の大祭には、奉納される面芸も京都の壬生狂言と同様に人気を呼び、会場についで賑やかなものでした。松は太平洋戦争中に枯死し、そこにあった社は昭和35年都市計画にかかったので、現在の位置に遷宮されたのです。今なお朝夕郷土人の参詣が絶えません
御蔡神:事代主神
Uターンして土手沿いに南下500m程度、西側直ぐに(山陽マルナカ東、吉井川手前)見られる。
雄神川神社、通称名:神武様
鎮座地:岡山市東区西大寺南2-9-21
由緒:(明治12年11月8日創建)
明治八年n土地税の改正があって人々が神様のお陰とし大変感謝して小さなお社を立てて最初五柱の神をお祭していた。その後一時廃社となったところが後再興の議が在り五柱の他に孝明天皇を合併し神社再建を決め明治十二年有志が東京に行き二品有栖川熾仁王及び右大臣岩倉具視、内務省社寺局桜井能監に神様のお印を戴くようお願いした。その結果二品親王の直筆を以ってお印とし、かつ社殿は尊厳を維持して一般の崇敬社とするようにとの許可を受けて雄神川神社と称することになった。(詳細は由緒等の掲示あり)
御蔡神:神武天皇、天照大神、豐受大神、大国主命、少彦名命、孝明天皇
西大寺緑花公園から177号南下、最初はm金岡ポンプ場を見落とし、行きすぎて引き返す。南から北へ進むと金岡ポンプ場は見つけやすい。南をを左折120mで左折直ぐに。ポンプ場の東側に見られる。
祇園神社
鎮座地:岡山市東区金岡東町1丁目5-27
由緒、御蔡神共に不明
同じ用水路を南下200m、非常に狭い道である。道沿いにあり小さいが見つけやすい
荒神宮
鎮座地:岡山市東区金岡東町1丁目11
由緒、御蔡神共に不明
ブルーラインの南、宝琳寺の南を目指す。金岡郵便局角を、北東へ細い道へ320m位進んだ処にある。
裳掛天満宮
鎮座地:岡山市東区金岡東町2-11-22
由緒:昌泰4年(901)年1月、菅原道真公九州太宰府に左遷の途次、犬島付近にて暴風雨に遭い、この地の観音堂に難を避けられる。その後観音堂は宝琳寺となり菅公天神社を鎮守として祀る。後岡山藩主池田光政の代、寛文年間藩命によって天神社を寺から分離独立せしめた。菅公避難の際、衣装を境内の松に掛け、乾かしたという故事により裳掛天満宮と称す。
御蔡神:菅原神
西大寺金岡郵便局(ここの交差点は8方向、注意が必要である)を南西へ1km進むと左側に見えてくる。田んぼの中の結構大きな神社である
金田天満宮
鎮座地:岡山市東区金田1051
由緒:創建年月不詳。昌泰4年(901年)春、菅原道真公が当金岡に休息せられたとき、里人に墾田を諭された。道真公の薨去が伝わると里人は菅公稲荷祠として祀った。慶長5年(1600年)秋殿宇を大いに興した。寛文11年(1671年)秋増改築し、末社三祠を祀った。天保4年(1833年)夏に大修理、明治19年秋に増改築した。昭和4年秋修理、その後毎年修理を重ね、昭和52年神忌1075年に記念修理を行い、整備に努め現在に至っている。
御蔡神:菅原道真 、天照大神、新墾祖
広めの道を選んで東に進んで177号に出る。想像していたより南に出たので、北上してエクスラン入口、叔父のお墓への手前の羽入口へ行く
途中に寛皇稲荷大明神の小さな社が見られる。
寛皇稲荷大明神
鎮座地:岡山市東区金岡東町3丁目5-11
由緒、御蔡神共に不明
更に進んでいくと曲がり角に小高い丘がある。
沖田神社
鎮座地:岡山市東区金岡東町3丁目
由緒、御蔡神共に不明
吉井川土手下を注意しながら走ると見えてくる。九蟠港の直ぐ近くである。(あらたき稲荷神社見落とし)
最上稲荷神社
鎮座地:岡山市東区九蟠12
由緒、御蔡神共に不明
疲れてきたせいか、当初予定の神社が全く分からなくなったので、江崎への県道215号を走り百間川を渡り、先にある信号を川北行くと左手に見える。
やはり名前が売れているだけあって、結構大きな神社である。
沖田神社
鎮座地:岡山市中区沖元411
由緒:当社は備前国藩主池田綱政の時代に新しく開拓された沖新田の産土神として建立された。沖新田の開墾は、岡山藩の藩政確立に大きな役割を果たした津田永忠が、綱政の命を受けて元禄5年(1692)年の正月11日に着工した。その工事は迅速に進められ、驚くべき短期間で潮留め築堤・疎水・検地を終え、約2,000町歩の広大な新田が開かれた。元禄7年(1694)4月、沖新田全体の産土神として社を建立するため、京都の吉田殿(当時の神祇官)に見垣近江守を派遣し神の来臨を請願、同年5月23日に沖田神社の神宣が下された。当初は御野郡(現在の岡山市福島)住吉宮に鎮座されていたが、元禄7年9月3日に、旧沖田神社(岡山市沖元宮地在の古宮)へ遷宮した。しかし境内の土地が低いため大風・高潮・洪水の被害を受け、拝殿にまでも水が入り込む事があったので、宝永6年(1709)現在の社地に移転した。明治の廃藩置県後には郷社となり、大正12年5月25日に、県社に昇格した。
御蔡神:天照大神、素戔嗚尊、軻遇突智命、倉稻魂命、句句廼知神、おきた姫
同じ境内に胸形神社もある。
今日も疲れたの以前探しそびれた東山の峠の神社に参拝し帰宅
尾佐無神社、通称名:井戸神様
鎮座地:岡山市中区湊452
由緒:峠の林中に一小祠があって尾佐無明神と称し、延享5年(1748年)藩主池田氏の存置許可を得て、社段を造営した。境内に一清泉があって、常に清水が湧き出で、里人は通称井戸神と称した。古来眼病及び水の神として、遠近に崇敬者が多い。明治10年5月村社に列格した。
御蔡神:八衢比古神、八衢比売神、久那斗神、伊冊諾神