今回は女房の講習会への出席に付き合い、津山での神社廻り。
岡山から延々とR53号を走り、吉井川を渡り北へ直進、山北信号(右前方津山商業)を右折、右手『津山市総合福祉会館』、今回の起点、時間があったので衆楽園、鶴山公園等で時間をつぶし、女房と別れ神社廻りへ

最初から狭い道を避け、山北の信号を左折し南へ、椿高下信号を右折(394号)し進み城代橋信号を右折(68号)し北上すると前方左手に大きな神社の屋根が見えてくる。その方向へ向かって斜めの位置を左折し入り、進んで行くと、鳥居が、その参道の隣の道を左折して進み、神社前を右折して廻り込み神社横の駐車場へ車を停める。小高い丘の上にある大きな建物だけの神社、でも建物には圧倒される。
美作総社宮(総社)
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鎮座地:津山市総社427
由緒:当社は、社記によると欽明天皇25年、大巳貴命(大国主命)を字本館(西方約1キロ)に祀ったのがはじまりと伝えられ、和銅6年(713)備前国から6郡を割いて美作国が置かれ、その翌年、国府がこの里に開庁された。その後、美作国司が今の社地、亀甲山に社殿を移して大巳貴命を主祭神として、一宮中山神社、二宮高野神社の両大社をはじめ、美作65郷のすべての神祇を合祀して総社宮と名付け、その後およそ500年間歴代の国司は皆この御神意を奉じ国内の政治を執り行った。鎌倉時代になって国府がすたれた後も、この社は美作三大社の一つとして広く士民より崇敬され、近世のはじめ美作国主の森氏は多くの神領を寄進し、後の松平氏も祭粢料(さいしりょう)を奉納し、明治維新後は県社に列せられた。現在の本殿は、永禄5年(1562)に毛利元就が造営したもので、明暦3年(1657)に国主森長継が大修理を加え、昭和7年国と氏子崇敬者の協力により解体修理が行われた。この社殿の造りは、入母屋妻入で向拝に千鳥破風を配した独特な様式を持ち、規模も豪壮で華麗な彫刻を豊富に配置した桃山時代のすぐれた建造物で、全国の総社の内で当社のみが大正3年に国宝に指定され、現在は国の重要文化財に指定されている。
御祭神:大己貴命

元来た道を引き返し、68号に出た先の信号を進み進んで行くと右手に神社が見えてくるので、前に車を停め参拝する。
鶴山八幡宮
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鎮座地:津山市山北159
由緒:当社は、往古から鶴山頂上(現在の津山城跡)に鎮座していたが、慶長8年森忠政公が美作守として美作一国を領して入府し城下町建設にとりかかり、この山を城地に選定、築城するに当たり、先ず当社を一旦、城南覗山(のぞきやま)に遷し、その後慶長13年現在地、山北八子 不知夜山(やまきたやご いざよいやま)を神宝の地と占い、又御真意と符合することから八幡大神を崇敬し御社殿を造営して再遷座された。その後寛文9年には、森家二代藩主長継公により壮麗極彩色の御社殿を建立し、社領として50石を寄進するなど森・松平両家代々と縁深き神社で藩士からも文武の祖神として崇敬された。社殿の彩色は創建当時よりは薄れているが、三手先の組み物から軒まわりの華麗さは他に例を見ないもので、江戸時代初期の建築様式として貴重なものである。昭和31年4月1日拝殿、釣殿、神供所が末社薬祖神社と共に県重要文化財の指定を受け、昭和55年5月31日には御本殿が国指定重要文化財の指定を受けた。慶長15年・寛永12年・寛文9年・天明7年・文政5年・嘉永3年等の棟札が現存している。現在は津山地方北部の大産土神として崇敬されている。また、鶴山東山麓宮川沿いに鎮座せる千代稲荷(せんだいいなり)神社は、当神社の摂社であった。
御祭神:譽田別尊、神功皇后、玉依姫

前の道を南に下って394号へ、右折して先に進み城代橋信号の先の細い道を入るつもりだったが交通量多く難しかったので、少し進み、右折しやすい場所で右折し、一本北側の道を右折して進むと鳥居が、とても前には停めれないので、参道の右側の道を左折して登るが、神社へはチェーンが張られ入れず、隣の空地へ駐車する。
白加美神社
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鎮座地:津山市小田中254
由緒:第四十四代元正天皇の御代美作国戸川の宿の北の現在地に美しい五色の虹が輝き渡った。
苫田縣主藤原通憲が驚いて里人にその所を掘らしたところ、数尺も掘らないうちに神代の霊物と思われる、とても美しい璽が出た。その時忽然として一人の老翁が現われ告げるには「我はこの月輪田原に居る神である。この所に降居して久しいが、国人はまだこの地が霊地であることを知らない。汝を見るに心浄く性直で民を撫し、敬神の念篤く我は汝の誠心に感じ入っている。汝はこの神璽を奉崇し神籬を営んで天照大神より__草葦不合尊に至る五神を奉祭すれば陰陽五行和合し、国土平安し国人安穏なるべし」そして忽ちその姿は見えなくなった。通憲はそのお告げを畏み、そして急いでこの由を朝廷に奏上した。朝廷ではこのことを議し、「これは国中無双の霊地であろう速やかに神の教えの任に神籬を造営し、神璽を奉祭せよ」と勅命が下った。時に養老四年(720)であった。養老七年三月十九日に正遷宮が行われ、朝廷より三十町歩を神田として賜わった。神亀二年(725)に白加美大明神と奉称した。爾来朝廷を尊崇し、往時は戸川宿で毎月六度の市が開かれ、国人此地に会集し、財産を交易し、当日集まった人々は悉く当社に詣で財貨土毛を奉じ、福を祈り禍を祓った。その後森候入封の時社領は召し上げられたが、慶長十九年(1614)森 忠政候が二百八十石の社領を寄進、寛永十二年(1635)森 長継候から二十石、元禄九年(1696)森 長成候から二十石を寄進された。森家廃絶後は社領を召し上げられたが、松平家では封内八社として年々寄付米を奉納され明治に至った。明治初年に郷社に列した。現在の社殿は弘化年間(1840年代)である。
御祭神:天照大神、天忍穗耳尊、瓊瓊杵尊、彦火火出見尊、幸魂月夜見尊、鵜葺草葺不合尊

神社前を東に進み、城代橋信号で右折、進んで行くと右手に鳥居が、南側の駐車場へ車を停め参拝
出雲大社美作分院
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鎮座地:津山市田町87
由緒、御祭神共に不明
岡山にもあるような結婚式場が主?

上記神社の直ぐ南の信号を東へ、直ぐの道を左折北上すると左手にひっそりと存在する。
御先神社
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鎮座地:津山市田町
由緒:創建:寛永年閣(1624~1643) 以降、森家の家臣吉田作左衛門が、二宮高野神社境内にある御先神社を寛永年間にこの地に勧請した。吉田邸は刃傷沙汰の伝承のある侍屋敷。
その話に絡んで稲荷神の「うかのみたま」のお使いである狐を屋敷神として杷ったもの。
現在の社は明治時代の建造である。
御祭神:お稲荷様=倉稲魂命(うかのみたまのみこと)

68号を南下、信号の手前を右折、直ぐ左手に赤い鳥居が見え、前に駐車場がある。
高松最上稲荷分院蓮照院
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鎮座地:津山市福渡町
そしてすぐ前に道を挟んでひっそりと、民家に囲まれ詳細は不明
安産稲荷神社
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鎮座地:津山市福渡町
共に由緒、御祭神共に不明

先ほどの神社の前を進み、最初の角(突き当り)を右折すると先に鳥居、神社前に車を置く。
徳守神社
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鎮座地:津山市宮脇町5
由緒:当神社は聖武天皇の御代天平5年(733)の鎮座と伝えられているが、現在の津山市小田中の地に祀られていた。 天文8年(1539)火災に遭い社殿を焼失し、再建された本殿は現在、境内摂社の住吉神社となっている。慶長8年(1603)美作の国18万6500石の国主大名として入封した森忠政(森蘭丸の弟)が津山城を築くにあたり、現在地に移して津山城下の総鎮守とした。現在の社殿は第2代森長継が改築したもので、県指定の重要文化財となっている。明治5年に県社に列せられた。氏子は津山市の中心部56町内に亘り、作州第1の大社である。例祭(秋祭)の御神幸は、供奉300人を越え、全長500メートル輿丁150人を要する神輿は、日本3大神輿の1つといわれる。節分祭の追儺行事も近隣に比を見ない盛儀である。「徳守」の社号は、勅使として参向した清閑寺大納言藤原徳守の名に因むというが、定かではない。境内末社の善神社(祭神 お花善神)は、津山藩森家の家老原十兵衛に仕えた美女お花が横死し、その霊を慰めるために祀られた社で、婦人の守り神として知られ、特に逆境にある女性に霊験あらたかである。境内に赤穂47士の一人神崎与五郎則休の歌碑「海山は中にありとも神垣の隔てぬ影や秋の夜の月」があるが、神崎与五郎はもと津山藩士、徳守宮を深く信仰し、討ち入りにあたっても徳守宮を拝したということである。
御祭神:天照大日瑠女命

吉井川近くまで南下、68号南新座信号東へ、新大橋信号左折、進入禁止のため、橋を渡り川沿いを北へ、赤い橋と赤い神社が対岸に見えてくる。近くに車を停め歩いて赤い橋を渡り参拝する。
千代稲荷神社
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鎮座地:津山市山下82
由緒:承平四年九月十九日(人皇六十一代朱雀天皇の御代)是の日、天気清朗で、お山は錦に輝き、山頂にある八幡様の大杉は天を摩し、神樹として辺りに威を放って居りました。里人は、手に手に御酒を携え、境内に集まり、種々のお供を奉げ、豊穣をお祈りし、酒を酌み交わして居りました。丁度その時、一羽の鶴が、矢のように穹天より舞い降りて、大杉の天辺に止まりました。里人は手を拍って大いに喜び、この鶴をよく見ますと、嘴に一把の稲を啣えて居りました。やがて瑞鳥は、人々の頭上を、大きな輪を画いて舞い遊び、其の稲を神前に落すと、東へ指して翔け去りました。里人は、之を祥慶を招くものと深く珍重し、この籾を翌年、神田に植えたところ、畦が隠れる程の収穫がありました。里人は大へん悦んで、大杉に五穀の神が降臨されたものとして、壇を築いて鶴の千歳を冠し、千代稲荷神社とあがめ、五穀の神、倉稲魂(ウガノミタマ)之命を御祭神としてお祀り致しました。そして此の大杉のある山を鶴山と呼び、毎年神田で穫れた新米を御供えするのが習わしとなりました。森忠政が築城の折、一時城南の覗山に遷し、後に山北の八子に移されましたが、寛永十一年森長継公の時、「鶴山に遷れば永世城の鎮護とならん」との夢の神告により、神祠を城郭の北隅の石垣の下(現在の地より五丁程上の処)に遷し奉り、神殿を新たに造営して上下一同篤く信奉致しました、
  殊に森公により、城の守護神として、現在の地に祭祀されてより、歴代の城主・庶民の篤き信仰をうけて来ました。津山の発展のために御降臨下さった千代稲荷神社、城の守護神である千代稲荷神社は、津山市発展の為の生産の神であり、市民の守り神であって、単なる稲荷信仰とは違うのであります。今日、城山の重要性が強く認識され、之が開発は、津山市発展の根元と云われて居りますが、城山の開発、市の発展は、先ず守護神である千代稲荷神社を尊崇するところであります。
御祭神:豊受神宮の分神と伏見稲荷神社の御分霊

南下して元の橋へ、東へ向かい、左折、直ぐ右折東へ町屋カフェと小さい石柱を北へ突き当たり
大隅神社
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鎮座地津山市上之町78
由緒:当社は、和銅年間以前より祀られており、この地の山澤、原野を開拓し國造りの化身と崇められた信仰無類の「豊手」という異人が出雲國日寓宮(今の出雲大社)を勧請し、大寓宮と称したのが鎮座の起源と伝えられている。当社の縁起・古謄文等は、天文年中尼子晴久の乱の折り、更に永禄年中凶徒の災によって紛失し、又宇喜多直家は当国を領したとき刀剣・甲冑・筒丸を奉納したと伝えられている。元は六百メートル東の地に祀られていたが、美作国守森忠政公が鶴山に築城し城下町が賑ってきた元和六年(一六二〇)三月現在地に遷され、以来大橋以東の産土神として崇敬されている。当社は鶴山城鬼門守護として代々国守の崇敬厚く、社領の寄進、社殿の造営・修理が行われた。現在の御本殿は、貞亨三年(一六八六年)に再建されたものである。
(大隅神社神門:大隅神社の門は、もと津山城内にあった門で、明治8年、津山城を取り壊した際に移築し、大隅神社の神門として使用されるようになったものです。従って普通に設計された門とは異なり、用材は太く工法も粗野ですが、津山城の遺構のひとつとして珍しいものです。構造は、門の幅3.93m、側面の幅2.24mで、屋根は切妻造、本瓦葺です道路の高さは乗馬で通行できる程の高さで、城門として使用されていた事がうかがわれます。建築様式としては、薬医門様式と呼ばれるもので、主柱2本(角柱)と控柱(角柱)2本で切妻屋根を支え、屋根の重心は本柱に寄りかかっている様式であります。)
御祭神:大己貴命、小彦名命

R53号を川沿いに東へ進んで行くと前方に橋が、橋を渡り、前方右手に木立が見える。カーブす手前を右折すると左手に鳥居、右手に神社が見える。(最初手前を右折してしまったので、見つからず作陽高校の方まで行ってしまい引き返す)
八出天満宮
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鎮座地津山市八出357
由緒:菅原道真公の父是善が天安元年(八五七年)美作の国司として赴任しておられた。この時この国に病気がはやっているをお聞きになられた菅公は父の病気を心配して遠く京都から見舞に来られたが父の病はすでになおっておられ安心して 帰ろうとされた。ところが里人が別れを惜しんでこの地に駐まってもらうよう念願した。そこで菅公はこの地の観音寺に留まって木工に命じて自分の像を刻んでもらい「汝この像を観ること吾を観るごとし」と、里人に自像を渡して遂に帰京された。里人は菅公の恩徳を慕い祠を建てこの像をお祀りした。菅公がこの地に八日留まって出られたのでこの地を「八夜御出村」と呼んでいたが後略して「八出」と言うようになる。こうして学問の神・菅原道真公を祭神とする八出天満宮ができた。本殿は文禄三年(一五九四)火災のため焼失したが、御神体は神主によって奉戴して逃れ小社に祀っていたのを森忠政によって慶長年間に再建せられ、さらに森永継が寛永十四年(一六三七)に再建修理したのが現今の神殿である。
御祭神:菅原道真公

適当に西へ進んでもいいが、迷うと厄介なので、元へ引き返し、53号、津山駅前と岡山方向へ進み来るときに見た、53号線沿いにある神社を目指す。
佐良神社
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鎮座地:津山市一方636-1
由緒:本社の創立年代は不詳であるが、口碑によれば備前美作の両国造となった。和気氏の祖が、この地に居住し、地名を美作国佐良の荘(旧久米の佐良山)と云えられる。和気氏祖神を当地に勧請したのが佐良神社である。大正2年2月15日に福田村 村社八幡神社、元高尾村 村社高尾神社、元皿村 村社佐良神社、元平福村 村社八幡神社、元中島 村社福井神社、元一方村 村社長岡神社、元北村 村社八坂神社、元井口村 村社八坂神社以上の各部落の神社を佐良神社に合祀する。大正2年10月に現在の地に遷座した。
御祭神:佐波良神、素盞嗚命、天日鷲命、大國主命、譽田別命、大山祇命、奥津彦神、奥津姫命、猿田彦命、火産靈命、清麻呂命、平麿神、和多都美神、天穗日命、經津主命、倉稻魂命、彌都波能賣神、宿奈命、伎波豆命

少し早いが妻を待たせると何かと煩いので元の起点迄戻る。津山はやはり遠いし方々に散在している感じ。再チャレンジする価値はあるが、十分な見当が必要である。