天気はあまり良くないが暖かいので昼頃から西大寺の東側(吉井川の東岸)を目指す。
2号線岡山バイパスからブルーラインへ、神崎インターで降り、28号で南へ千町川を渡って左折して231号を東方向へ、、右手の『円定寺資料館』の近くへ車を停め、先にある橋を渡り山際に進んで行き、先を右折して進んで行くと右手奥に(東側から廻り込む)
荒神宮
x0349page
鎮座地:岡山市東区長沼
由緒、御祭神共に不明

231号を東へ進み、左手に見える『長沼ふれあい会館』に車を停め、前の公園から参詣する。
豊原南嶋神社
08071page
鎮座地:岡山市東区長沼1474
由緒:本神社は「備前式社考」には「従五位上豊原南嶋大明神」。山本氏本には「従五位上豊原南嶋明神」とある。備前国古社128社の一である。明治42年5月、境外末社円定寺素盞嗚神社、荒神社、寺前伊勢宮、八柱神社、岩神、松殿神社、中姓寺荒神社、東谷荒神社、田原神社を合祀した。備陽国誌に「當社は浦上遠江守宗景より社頷百石寄付、金吾中納言秀秋の時、社領悉く没収。池田輝政の御時、社頒七斗御寄付有之」とある。社記略に「天文14年(1545年)宇喜多直家、砥石城を攻むる時、兵火にかかり記録等すべて失ひし云々」とあるが、創立年は不詳である。
御祭神:豊原南島神
元はかなり広かったのか公園の西端に鳥居と、石組の跡が

231号を東に進んで行き、前方を左折して橋を渡り、左折して進んで行くと前方右手に小さな鳥居が見える。
荒神社
x0350page
鎮座地:瀬戸内市邑久町北島
由緒、御祭神共に不明
砥石城攻防戦の跡に建てられた神社か?

東方向へ引き返し、先ほど左折した手前を左折して北へ進みブルーラインを潜り、前方を左折し、突き当り附近に車を停め、左折し歩いて南へ進むと右手に神社が見える(やはり車を手前に停めて正解-車は通行の邪魔)
天神社
08011page
鎮座地:瀬戸内市邑久町大窪212
由緒:創建年月日・由緒等は不詳であるが、天文御帳に天神社とある古社である。
御祭神:少彦名命、菅原神

車で左折した処まで引き返し北へ進むと左手に神社が
大窪八幡宮
08010page
鎮座地:瀬戸内市邑久町大窪418
由緒:本神社の創建年月日・由緒等は不詳であるが、もと大ケ島村阿智山にあり、阿智本八幡宮と奉称した。仁平3癸酉年(1153年)9月現在地に奉遷した。享保の頃(1720年頃)、八幡宮と改称した。池田家から社領三石五斗七升の寄進が明治3年までつづいた
御祭神:仲哀天皇、応神天皇、神功皇后
実際は231号まで進み北上、左手長田医院先の道を左折して、本来の道へ出ようとして狭い道四苦八苦、もう少し先の224号で左折し、小さな川の信号で左折すれば問題なかった

224号を左にカーブして北へ進みハローズ邑久店先の小さな用水を右折し進んで行くと右手に、路肩に車を停め、西川から廻り込んで参詣する。東側へ廻り込んだ方が参道か
百枝八幡宮
08027page
鎮座地:瀬戸内市邑久町尾張398
由緒:当社の現在の宮地は、大古邑久郡の中部一帯が海であった時、小高い砂地であり海の中の浮地であった。その中に1本の松が挺然屹立し、その浜辺に打寄す白波は日の出を受け、月光麗朗影を描き黄金色をなし、瀬戸内を航海するものの霊場として、海上安全の神・尾張連の祖、高倉下命を祀った。当時、瀬戸内海交通最大の障害は霧であった。その霧を払うために祀られていたと想像される。現在の百枝八幡宮が尾張の総氏神として鎮座されたのは、宝亀2年(772)に高砂山系の早稲田の里、休所(現在の山手半田)に鎮座されていた正五位下稲戸明神から奉遷された。古文書によると、当時はその老木の枝が百枝もあることから「金海百枝松八幡宮」と称されていた。
御祭神:仲哀天皇、応神天皇、神功皇后
鳥居の大きさに比べ前が狭いのは、元は参道(馬場)であったが邑久高校運動場に提供したためのよう。

車を停めた処を用水沿いに東へ進めばいいのだが工事中で前面通行止め、しかたないので右折して南へ、次の道を左折して進み用水の先の道を左折して進むと右手奥に赤い鳥居が見える。路肩に車を停め歩いて目指すが、私有地で鍵がかかっていて無理、何とか隙間を通り参詣(南側から廻り込む必要あり)
城稲荷神社
x0351page
鎮座地:瀬戸内市邑久町尾張
由緒、御祭神共に不明
尾治城跡に建てられた神社か?

北へ進むと224号『尾張』信号、横切って北へ、邑久幼稚園先を右折、この辺りが道幅ひろいので車を停め、歩いて突き当りを左折、最初の道を右折して進むと前方左手に神社が、(ここに車を停めるべき路肩あり)細い道を北へ進んで行く
品治神社
x0352page
鎮座地:瀬戸内市邑久町山田庄
由緒、御祭神共に不明

東に進み、突き当りを左折して進み、前方十字路を左折して進むと入口の表示、道なりに進むと北側の駐車場に、桜、梅、椿が植えられた公園があり、赤い椿と黄色い椿が左右に分けて植えられているが黄色は時期を逸したか?駐車場は非常に広い
貴船神社
08017page
鎮座地:瀬戸内市邑久町山田庄1366
由緒:当社の創立年月は不詳であるが、山城国愛宕郡(現在の京都市左京区)官幣中社貴船神社の御分霊を旧山手村早稲田休所(現在の山手、半田の小高い所)に奉斎した。従5位上稲都神社の縁起によると、貴船大明神は(後に貴船神社と改号)宝亀2年9月(771)5町ほど西方の貴船山に奉斎し、神主守安仁左衛門奉仕すとある。その後、才名山(さいなさん)、円通寺、別当職をもって奉仕する。(才名は小物屋付近に小字としてあり、別当の字が貴船山の麓にある)当時この付近は尾張の保と称していたが、慶長元年3月(1596)尾張村、山手村、山田庄村と3ヶ村に分村し、享保年間(1716)に藩主池田光政の命により神職大森丹後守正豊が奉仕、藩主崇敬により社領3石3斗が明治3年まで奉納された。現在は山田庄の総氏神として、また、水の神様として広く信仰を集めている。
御祭神:高オカミ神

元の道へ戻り東方向へ、突き当りを左折し直ぐに右折、岩屋山展望台の標識に従い進んで行く、途中U字カーブに直進道は通らないで進むと右手に
祇園宮
x0353page
鎮座地:瀬戸内市邑久町山手
由緒、御祭神共に不明
麓からの道もありそうだが今回特に調べず

更に進んで行くと、U字カーブ手前の左手に
加茂神社
x0354page
鎮座地:瀬戸内市邑久町山手
由緒、御祭神共に不明

更に進んで行くと、U字カーブ手前の左手に、この道を突き当り迄行くと『岩屋山展望台』に行きつく
大垣八幡宮
08016page
鎮座地:瀬戸内市邑久町山手1679
由緒:創立年月は不詳であるが古老の口碑によると、旧山手村早稲田休所付近(現在の山手半田の小高き所)に鎮座せし従五位上稲都神社を、宝亀2年(771年)9月に五か所に御分社の時、稲都神社を重高大垣八幡宮と御改号、高砂山に奉遷した。これが即ち現在の山手八幡宮である。昔は社領畑高五十三石五斗八升、折紙にて神主吉田大和守森直拝納す。往古この付近一帯を尾張の保と唱え、慶長元年(1596年)に分村し、尾張・山手・山田庄の三か村となる。明治元年八幡宮と御改号、社領石高二石四斗五合。明治4年まで池田家より奉納があった。
御祭神:仲哀天皇、応神天皇、神功皇后
麓までは降りなかったが広めの参道が付いているようである。

元の入口まで引き返し、南へ進み信号のある十字路を左折し、突き当りを右折してU字を描きながら集落の外側を道なりに進んで行くと、前方右手に『真徳』の標識、近くに車を停め山方向を探す。坂道を登って行っていると地区の人に出会ったので聞いてみると親切に分かりやすい処まで案内してくれる。坂道を登って行き突き当りを右折して進むと広い場所に(ここに車を停めれる)その端に山に登って行く道があるので進むと神社に(少し進み2つ目の道を左折して道なりに山を登って行くと神社の横へ-墓地へ行く道のようで非常に遠回り)
阿字八幡宮
08018page
鎮座地:瀬戸内市邑久町山手1026
由緒:当社は式外の古社で、創立年月日は不詳である。古老の口碑では、旧山手村、早稲田休所、早稲田付近(現在の山手半田の小高きところ)に鎮座していた従五位上稲都神社の縁記によると宝亀2年(771年)9月五箇所に御分社の時、東、八町、卯の方、真徳八幡山の麓に王金明徳阿字八幡を奉還す、とありその後八幡宮と御改号され現在地に鎮座されている。御内陣裏に阿字八幡大菩薩、社僧、真徳山、明王院と記されている。
御祭神:仲哀天皇、応神天皇、神功皇后

更に進んで行き、前方Y字路を右折した先の山側にあるようだが、道が狭く車停めれないので少し先のカーブ手前の広い空き地に停車し、歩いて引き返していくと右手に登って行く道が見る
疫神社
x0355page
鎮座地:瀬戸内市邑久町本庄
由緒、御祭神共に不明

今日は出発が遅かったのと前半曇りだったので良くなかった。少し南東に進むが邑久インターからブルーライン経由で帰宅