今回も岡山県の西方向の未参詣神社を廻ることに、R180号、270号、R486号で西へ進み、矢掛の先(川向うに矢掛浄化センターが見える)で小田川を渡り直進した突き当り附近に車停め、歩いて左折して進み突き当りを右折して進んだ先の左手(今回は歩いたが車で通行可能-コンクリートの舗装は少しガタがきているが)
荒神社
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鎮座地:小田郡矢掛町東川面
由緒、御祭神共に不明

川沿いに西方向へ進めそうだが、まずはコンビニで朝のコーヒー、一旦R486号迄引き返し、左折して西へ、前方矢掛町江良の信号で左折して川を渡って進み、前方広い道が右折する処を直進した先に車を停め、歩いて前方を左折、右折して進んだ先の十字路の処を左折して山道を進んで行った左手
荒神社
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鎮座地:小田郡矢掛町江良
由緒、御祭神共に不明

先ほどの十字路まで引き返し直進して進んだ左手
貴布禰神社
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鎮座地:小田郡矢掛町江良1807
由緒:当社は往古貴布禰大明神といったが、明治になって貴布禰神社と称するようになった。第113代東山天皇の御代、元禄3年(1690)に京都愛宕郡鞍馬村の貴船神社の御祭神雷神犬山祇神タカオカミを勧請したと伝えられる。まもなく板倉摂津守の御祈願所になった。御社殿は、棟札によると元禄7年1694)願主渡辺惟親によって建立され、寛政3年(1791)本願主渡辺統右衛門惟房によって再建、天保11年(1840)願主渡辺清左衛門源正明によって修復され、現在のものは明治13年(1879)本願主渡辺淡平によって三再建されたものである。境内には「貴船宮、明和8年卯10月吉日 施主末永善三郎秀勝」の銘のある石鳥居、「明治4年末正月吉日 当村願主時松松造」の銘のある百度石、「明治44年桂月 都窪郡清音村軽部江口虎太郎」の銘のある注連柱、「文化5戊辰 備前岡山信者中」、「文化2辰年十月吉辰 備前岡山佐々木氏」の銘のある石燈籠各1基があり、当病平癒にご利益がある神社として江戸時代から明治にかけて小田郡のみならず、岡山方面にも信者をもち、栄えていたことが知られる。当社のおつかいはキツネであるといわれ、本殿の横には出入りする穴が開けられている。高梁川が洪水で渡れない時には、キャンキャン鳴いて知らせたといい、握り飯が好物でお供えしておくと必ず次の日にはなくなっていたという。祭神のタカオカミは雨かんむりの下に口が3つ、その下に龍と書く。
御祭神:雷神、大山祇神、高オカミ神
この付近の道幅は結構広いが駐車には?、貴布禰神社は神社前は広いし左側に車参道がある。

車を置いた前方を右折して進み、前方のゴミステーション附近に車を停め左手階段を登って参詣、最初右手に荒神社、その奥に若宮神社
荒神社
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鎮座地:小田郡矢掛町江良
由緒、御祭神共に不明
若宮神社
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鎮座地:小田郡矢掛町江良603
由緒:この神社は往古若宮大明神または若宮宮といったが、明治のはじめから若宮神社と称するようになった。第109代明正天皇の御代、将軍徳川家光公の寛永14(1637)に願主当村庄屋渡辺拾良左衛門によって勘請されたもので、御祭神は神武天皇である。江良村(現在の矢掛町江良)の氏神として尊崇し、殊に秋の例祭は厳粛に執行された。氏神明若宮大明神当番牒によると、元禄16年(1703)より祭典に奉仕した当番名、御供物、祭具等が記載され、当時から氏子中の者達が氏神明を中心に生活したことが伺われる。御社殿は、棟札によると宝永2年(1705)本願主当村庄屋渡辺茂輔渡貴によって本殿と拝殿を再建、また寛延3年(1750)本願主当村庄屋渡辺宗兵衛亮雄によって再々建され、現在の御本殿は天保13年(1842)本願主当村庄屋渡辺清左衛門正明によって四建立ちされたものである。屋敷は、延宝5年(1677)の御検地役人水谷左京亮の検地帳によると、『若宮屋敷 但し宮建有7畝7歩半除地』の扱いになり、またその58年前元和年間の御検地役人花房志摩守の検地にも除地扱いの旨記載されており、当時から既に若宮屋敷は免租地であった。なおその後享保13年(1728年)には矢掛村(現矢掛町矢掛)の住人中西愛右衛門という人が、氏神の境内が狭小である由を氏子の市右衛門が話したとの噂を聞き、幸い持ち合わせがあるからと山壱ケ所を寄進したことが古記録にある。境内には、安永元年(1780)に石鳥居、嘉永2年(1849)手水鉢、仝3年には石唐獅子を、また仝6年に東参道に石段・翌7年石灯篭一対を氏子中が奉献し、最近では昭和18年(1943)正面に石鳥居を奉献して、氏神としての尊厳がいっそう深くなった。さらに、昭和60年(1985)に神楽殿控所を篤志家が奉献した。若宮神社は、矢掛町江良の宮山の頂きに鎮座し、氏子は朝夕これを仰いで家業に励み、平和の歳月に恵まれて今日に至っている。
御祭神:神武天皇
参道は南北にあり南側には車用の参道も

北へ少し進み左折して広い道を西へ進むと前方信号、右折して155号を進み橋の手前を左折して進んで行くと前方に鳥居が、土手を降りて進むと右手に
三宝荒神社
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鎮座地:小田郡矢掛町浅海2853
由緒、御祭神共に不明

引き返しR486号を西へ、小田駅先を右折して48号を北へ進み前方Y字路を左折し407号を進んで行くと前方池の土手、左手に神社、ゴミステーション脇に車を停め参詣
艮宮
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鎮座地:小田郡矢掛町小田
由緒、御祭神共に不明

R486号へ引き返し、右折してR486を西へ進み坂道を降りた先『小田西』の信号を左折して48号を進み『井笠鉄道記念館』を過ぎた先の信号を左折して168号へ新吉小学校横の坂道を登って行くと右手に尾坂ダム、その先右手に『たかたのたまご』の建物が、その手前を左折して進んで行き、突き当りを右折した辺りへ車停め参詣-神社前に駐車スペース有
艮神宮
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鎮座地:笠岡市尾坂2209
由緒:当社の主祭神は古事記、日本書紀などに記述されているように、古代大和政権と相対した勢力を持っていた土豪を破り、吉備の国を鎮定した大吉備津彦命と、異母弟の若建吉備津日子命の2柱を始め吉備津彦命の一族をまつり、吉備国の総氏神と称される吉備津神社の系に属する神社である。吉備津神社について記されているものの中に、平安末期の後白川法皇編著の梁塵秘抄(りょうじんひしょう)という当時流行した歌集の一節がよく紹介されている。即ち「一品聖霊(いっぽんしょうりょう)吉備津宮 新宮本宮内の宮 隼人崎 北や南の神客人(かみまろうど) 艮みさきは恐ろしや」この歌のように古い時代から都の庶民にもよく知られ、崇敬されていたことがわかる。勧請は後冷泉天皇の御代の永承元年(1046)である。寛文11年(1671)霜月、藩主池田光政公の崇敬により再建が行われた。明治40年5月神饌幣帛料供進神社に指定された。
御祭神:大吉備津日子命、若建吉備津日子命

168号を南東へ進んで行くと前方にY字路右手の狭い道を進んで行くと左手に
多賀神社
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鎮座地:浅口市鴨方町小坂西
由緒、御祭神共に不明

神社前の道を進み最初の三叉路を左手、東方向を目指すと行けそうだが先が狭そうなので先へ進み、次を左折して進んで行くと前方左手に丘、左折して坂道を登った先の右手に鳥居
荒神社
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鎮座地:浅口市鴨方町小坂東
由緒、御祭神共に不明
路肩への駐車は考慮する必要あり、狭くはない道だが適当な駐車スペースがない-神社横の入った道へ停め等とすると農作業の車が来て急遽交すハメに-おかげで聞くことが出来たがここの神社は公民館の中にあるようである。

荒神社の北側に行く狭い道の先(見えている)
若宮神社
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鎮座地:浅口市鴨方町小坂東
由緒、御祭神共に不明

先ほど丘の手前左折した処まで引き返し左折して東方向へ進んで行くと60号と168号の交点へ、左折して168号を進み鴨方西小学校先の信号を左折して168号を進み、前方を川沿いに右折して進んだ先、左手に遊歩道の表示、整備された湿池の先に新しい小さな祠が見えるので、そちらから参詣し、車参道を通って境内に
小坂八幡神社
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鎮座地:浅口市鴨方町小坂東2936
由緒:創建は宝亀5年8月15日。寛文、宝暦年中の神社書上帳に、八幡宮とある。小坂、東小坂、西深田の3ヶ村の産土宮である。神功皇后の三韓征伐の供奉をした仕丁3人が、功労により大御盞をいただいたといい、その土器を摺子鉢という。現在に至るまで祭典及びおわけ祭のとき用いられている。寛文7年に神仏混淆が改められて八幡神社となった。その後元禄5年に本殿を改築。寛保3年に御屋根の葺替えを奉仕した。昭和31年に本殿、33年に幣殿、35年に拝殿、37年に社務所を改築した。
御祭神:足仲彦命、誉田別命、気長足姫命
北側の階段が木野山神社の参道?、八幡神社の参道は南側にありここを通って車まで帰る。
木野山神社
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鎮座地:浅口市鴨方町小坂東
由緒、御祭神共に不明

小学校先の168号へ出て『鴨方』方向を目指し(直進)、高速を潜って南側を並行に走って行くと前方に『本庄橋』の信号直進した先に神社
不明神社
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鎮座地:浅口市鴨方町地頭上
由緒、御祭神共に不明

引き返し南へ、鴨方IC西で左折して155号へ、その後60号で東方向へ、前方左手池の土手の東側を左折し進み、池の東端へ車停め参詣
磐岩神社
鎮座地:浅口市金光町地頭下1047
何か変?一度参詣した記憶ありGoogleMapの保存が消えている。前回は東側から参詣しており、入った道が一本南側のため、マイマップで確認、金光駅北側は参詣済であった。
どうも未調査で出掛けることが多く、神社の裏に『木野山神社』がなぜか有るようである。

早いけれど女房と約束あり帰宅することに、このまま60号を進み高梁川へでた処でV字に曲がり南へ、バイパスを潜った先から土手下を南へ進むと右手に、軽トラが何台も神社前に止まっており、境内の木々の剪定作業の真っ最中であった。
川添神社
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鎮座地:倉敷市船穂町船穂
由緒、御祭神共に不明

元まで引き返し60号、428号で帰宅、時間が早いと土曜日でも結構空いている