12月は天気と温度が何か不安定、どうも出かけるのが億劫になっている。この処、県の北東部を重点的に廻ったので西方向へ目を向ける。県北は雪のシーズンに入るので成羽川以南を!

R180号で高梁の手前まで、R313号で成羽川沿いに西へ、成羽川を渡った先『日名口』信号を左折して35号を、まず最初の予定神社(大倉神社:高梁市成羽町下日名2490)を目指し、前方左手の橋を渡り成羽川沿いに引き返し集落の南側の山中を下から探すが見当たらない、防護柵が張り巡らされており自由に探せないせいもあるが?、いずれにしても近くの人に合わないので諦める

35号を南へ進んで行くと左手に神楽公園、少し進んだ右手に交流館、ここの南側に車を停め、南奥の神社を目指す
御前神社
12003page
鎮座地:高梁市成羽町下日名920
由緒:本神社は第61代朱雀天皇の天慶年間(938~947)の勧請と伝われている。また、一説に第96代後醍醐天皇の御代建武2年(1335)乙亥吉備津神社から御分霊を勧請奉斎したとも伝われているが、詳細は不明である。棟札に慶安3年(1650)庚寅、寛文元年(1661)、文政4年(1821)、慶応元年(1865)の4度再建されたことが記されている。尚、文化、文政年間に当社の神主であった西林国橋は「備中神代神楽」を考案した。
御祭神:伊邪那岐命
鳥居の右側に車参道が見られるが、境内入口はチェーンが張られており歩いた方が無難

35号を少し進んだ先を右折してみちなりに進んで行く、途中左手の田圃の中に祠
不明祠
x1100page
鎮座地:高梁市成羽町上日名
由緒、御祭神共に不明

更に進んで行くと右手に、前に空地有
上之平荒神社
x1101page
鎮座地:高梁市成羽町上日名
由緒、御祭神共に不明

35号へ戻り、更に南へ坂道を進んで行き、前方左手、橋を渡った先
宇津神社
x1102page
鎮座地:高梁市成羽町上日名
由緒、御祭神共に不明

次の予定神社(木野山神社:高梁市成羽町上日名2693)も予定していた道が工事中で通行止め、元々道幅がはっきりせず気乗りはしてなかったので中止

35号を進んで行くと右手に鳥居が見えるが間に川が在り行けそうにないので更に進んで行くと、前方右手に上水設備、その先橋、よく分からないので車を路肩に停め歩いて坂道を登って参詣
中山神社
09098page
鎮座地:井原市美星町明治6757
由緒、御祭神共に不明
車で十分通行可能な坂道、先に駐車スペースもあり、又、東側にある表参道(鳥居と階段)は埋もれている

35号を南へ進み、前方右手に48号を進み、山を越えて集落に入ると、前方右折して292号を進み、美星明治簡易郵便局先、坂道を下った先を左折して進んで行くと右手に参道、車で可能
貴野山神社
x1103page
鎮座地:井原市美星町明治6757
由緒、御祭神共に不明

神社入口の道を南方向へ広い道を進んで行くと、前方に広めの道、みちなりに進んで行き池の手前の十字路を右折して進むと前方にY字路、右手の枯葉に埋めれた進むと前方に右折して急な坂道を下ると前方に神社と右手に空地
九名八幡神社
09097page
鎮座地:井原市美星町明治1016
由緒:本神社は記旧或いは古老の伝えるところによると、往古、九名村の人達は筑前宗像の三女神の崇敬が篤く、中山西ノ谷に勧請して氏神とした。祭神は田心姫命、瑞津姫命、市杵嶋姫命の3柱である。元禄15年(1682)冬当村の柚ノ木与兵衛が氏宮を寄進建立した。その頃寺の勢力が強く、9名の法華(日蓮)宗妙光寺の僧侶は八幡神社の祭事に干渉し、神前で読経したことから、当時の神主と論争が起こっている。その後、享和2年(1802)の頃は妙見八幡宮と称していたが、明治9年以後は妙見の名を廃し、八幡神社と社名を改めた。近世では例祭の氏子当番は世襲制をとり、1地区から1戸あるいは数戸を定めその地区氏子を代表して祭事を担当した。これを「名の者」という。上絵具名地区は表(屋号)、下絵具名地区は向、中山地区は田渕・上岡田・下中屋・後の内から2戸、友成地区は伊達・野田、三田地区は窪、宗金地区は表両家、鳴石地区は鳴、秋年地区は向などである。「名の者」成立時は全てを九つの名として輪番で当番をつとめたと思われ、この九つの名株が代表する村として九村の村名が生まれたと言われている。寛政6年(1794)10月現在の社殿を建立し、寛政11年(1799)己未9月石鳥居を建立、享和2年(1802)9月手水石、灯籠等を設置している。安政6年(1859)以前から敷地及び山林は領主撫川藩主戸川主馬助から寄進され除地となり、明治11年以後は官有地に変わり同39年国から払い下げを受け、大正3年1月23日神社所有地となった。九名の八幡神社は村名の通り、古くは九名株があって当番をつとめていたが、明治末期の名株廃止時には、11名株が当番を勤めていた。名株を持っていた家は「当番屋敷」と呼ばれ、「表」という屋号が多い。「表」は株の本家を指す場合が多く、それは村の草分けの家であると伝えている例が多い。名株廃止後の当番は部落単位に氏子が7組みに分かれてクジ引きで選出されており、祭の2日前には今も当番宅の庭に「おはけ」立てられる。例祭の「宮上がり」の時、神社へ担いで上がり、当渡し後、受当がいただいて帰って1年間自宅の庭に立てる。
御祭神:田心姫命、湍津姫命、市杵嶋姫命

先ほどの十字路まで引き返し、右折して広い道を南へ、コースを外れそうなので池の先を左折して進み、前方の交差点を右折して南へ、前方突き当りを左折して進み『法音寺』先で右折、左折して進んで行くと日札理手に、横に駐車場が-『太宰神社』への参詣を見落とし・後で
国司神社
09065page
鎮座地:井原市美星町三山1215
由緒、御祭神共に不明

神社前の道を少し進み直ぐ右折して進み48号へ、右折して進んだ直ぐ先の信号を左折して進み、前方Y字路を左折する処を間違えて直進(広い道だけ見れば間違えないが小さな道もあったので)前方2本目の道を左折して進むと池が池の北側へ車停め左手の奥を-特に問題はなかったがどうも山道・田圃道は不安が先に立つ、地図で見える道幅は車が通れる幅とは限らないから-一度十分広い道のように地図上では見えたが未舗装で両端がメチャ、車が通れない!、このような道が途中からあると本当に厄介、Googleのビューが有れば安心出来るが!
石鎚神社
x1104page
鎮座地:井原市美星町三山
由緒、御祭神共に不明
県下に結構見られるがよく分からない神社、新興宗教としての顔と石鎚信仰としての二つの顔があるのか?

神社前の道を進み、前方に当初予定の道が右折して前方右に緩くカーブする手前の広い路肩へ車を停め、近くで出会った人に確認して二つの神社へ参詣(神社まで案内してくれそうなので丁重にお断り)左手坂道を登って行くと左手に『名畑公会堂』、その先三叉路を左折して進むと左手に
菊池神社
x1105page
鎮座地:井原市美星町三山
由緒、御祭神共に不明
地区の一族の神社か?
今度は先ほどの三叉路を右方向へ進んだ左手山側
亀ノ甲荒神社
x1106page
鎮座地:井原市美星町三山
由緒、御祭神共に不明

面倒だが先ほど山から下って来た最初の処まで戻る、あらためて見ると建物に囲まれ下からは確認しやすいが上からは見つけるのは難しい
太宰神社
09100page
鎮座地:井原市美星町三山648
由緒、御祭神共に不明

この近辺、集落の間の細い道をウロチョロしたので肝心の起点する位置を忘れていた。48号が南へ折れる角の先へ車を停め、右手燈籠のある坂道を登る(左側の道を進むと神社の先へ)
八幡神社
09064page
鎮座地:井原市美星町三山5567
由緒、御祭神共に不明

48号を南へ進んで行くと直ぐ左手に鳥居(八幡神社)、更に南へ進んで行くと前歩に天文台・夢が原の案内標識、左折してみちなりに進んで行くと前方に交差点、更に直進して進んで行くと左手に『小宇内公会堂』、この前に車を停め、南下側の神社を目指す-車で十分可能-大した距離では無いが
門宮神社
x1106page
鎮座地:井原市美星町大倉
由緒、御祭神共に不明

道幅が良く分からないので、公会堂前の道を直進し前方突き当りを右折して南へ、進んだ先Y字路をV字に左手を下ってみちなりに進んで行くと右手に舗装された山道、右折して進んで行った左手(手前に空地)
明釼神社
09063page
鎮座地:井原市美星町大倉1015
由緒、御祭神共に不明

引き返して先ほどのY字路まで引き返し、南へ進んで行くと48号へ、出て直ぐ南の左手坂道を登って行くと、『東水砂農村公園』先に神社、交通量あり、停めれそうな場所が無いので先に進むと左手に車参道、V字に曲がり難いので少し先に進んだ所でUターンして、先ほどの参道へ車を突っ込み歩いて参詣-安全策を取ったが境内でUターン可能、先ほどの農村公園に車を置いた方が賢明!
磐裂神社
09066page
鎮座地:井原市美星町東水砂818
由緒、御祭神共に不明

48号へ引き返し、直ぐ北の左側の道を下って道なりに南方向へ進んで行くと前方に道が分かれている処(ゴミステーション)に車を停め、前方左手の竹藪を進んで行くと左手に-人々の信仰神はよく分からないが「何でこんな場所に」と言う神社には結構出会う
塩竃神社
x1107page
鎮座地:井原市美星町東水砂
由緒、御祭神共に不明

神社への道の右側の道を下って行き前方池の側に車を停め歩いて右手の坂道を登って行くと左手に鳥居が
荒神社
x1108page
鎮座地:井原市美星町東水砂
由緒、御祭神共に不明

池の左側の道を進み、前方ガードレールの見える道を目指し右折して西方向へ進んで行く、曲りくねりながらも西北方向へ進んで行き前方右手にV字の坂道を登って進んで行き、民家の先突き当りに車を停め歩いて北側の坂道を登って行くと途中に稲荷の祠と愛宕神の石碑、その先に、また西北に廻り込む車参道が(未確認)
宮丸神社
x1109page
鎮座地:井原市美星町西水砂
由緒、御祭神共に不明

分かれた道まで戻り更に進んで行くと広域農道、勘違いして左折して南方向へ進むと直ぐの坂道左手に神社
不明神社
x1110page
鎮座地:井原市美星町西水砂
由緒、御祭神共に不明

間違いに気付き広域農道を北へ引き返し、前方右手『サカエ理研工業(株)美星工場』手前の反対側に参道(左手の坂道)南側に鳥居と参道
明剱神社
09058page
鎮座地:井原市美星町西水砂209
由緒:本神社は旧大倉村布東に祀っている三躰妙見宮から暦応3年(1340)9月、その1躰を畑毛権右衛門が持ち帰り西水砂亀峯山頂の黒宮に分座し、西水砂村の氏神とした。明治5年村社に列し、明剱神社と改称した。
御祭神:經津主神、磐裂神、根裂神

引き返し南方向へみちなりに進んで行くと前方に48号、左折して進むと右手に鳥居が見えるので右折、左折して前方に
若宮神社
x1111page
鎮座地:小田郡矢掛町宇内
由緒、御祭神共に不明

左手に鳥居が見えているので、多少曲がる必要はあるが西方向へ、鳥居の前の軽トラは邪魔であった
鵜成神社
09091page
鎮座地:小田郡矢掛町宇内2031
由緒:社伝によると当社は西川面の鵜江神社の分霊を勧請したもので、もとは宇内大明神と称していたが、貞享年中(1684〜1688)ころに鵜成大明神と改号したという。明治9年までは黒木村(現美星町黒木)も当社の氏子であったが、明剱神社を祀るようになって氏子を離れた。参道には鵜成大明神 元禄2己巳年2月4日の銘のある石鳥居、享保3戊戌年9月吉日 願主当村山縣又右衛門,天明6丙午3月吉日 願生戌歳女の銘のある石燈籠各1基、享保3戊戌年9月15日 施主祝詞信濃守、神主源右衛門,儀右衛門,藤右衛門の銘のある手水鉢があり,拝殿前には昭和10年4月吉日 森岡忠太郎、森岡登一の銘のある唐獅子かおる。本殿に向かって右側には末社の明剱 御鋒 稲荷 岩山神社が 左側には出雲大社がある。御鋒神社は明和年中に起こった一揆の指導者で、矢掛の河原で打ち首になった宇平治という人を祀ったものという。宇内の西明院境内には宇平治の供養塔といわれる寶匡印塔がある。岩山神社は鵜成神社よりも古い神社でその社地へ鵜成神社を勧請、それ以後末社として祀られる。出雲大社は明治中ころに大社講の人たちが祀った。氏子が6組に分かれて組内で籤をひき大当1人相当4人を決める。当を受けると奥の間の前に〆縄を張り、昔は四足のものは食べてはいけなかった。昭和45年まではオハケを立てていた。オハケは高さ約5メートルの真竹の先に笹を少し残し、御幣を付けて立て、根元に川砂を盛る。周囲にヨロイ竹を立てて垣をしていたが現在は立てられない。また鳥居には長さ5メートルの大注連縄が藁蛇と同じに作られ、頭はシュロで目は赤いトウガラシで作られる。また 昭和45年までは大祭日にはご神幸があり、社森神社と木野山神社がお旅所であったが現在は行われていない。千歳楽があり青年会・子供会で現在も出している。
御祭神:吉備津彦命

48号を更に進んで行くと前方左手に神社、左折して神社前に
不明神社
x1112page
鎮座地:小田郡矢掛町小田
由緒、御祭神共に不明
西方向へ鳥居が見えるが、奥まった山の中腹で今回は中止

これで今日は帰宅予定、48号(広域農道)を南へ進むと小田でR486号へ左折して帰宅、家の近くR180号の万成附近が17時を過ぎると非常に渋滞、今日も17時前に通れず、12月のせいか非常に渋滞、多少はオーバーとしてもここで1時間かかった、やはり今後見当が必要!

今回気になったのは地形と神社の配置が非常に似かよった処が多いので、時々再参詣かと思う事とが何か増えた気がした。」また、神社廻りをしていると方々で『○○農村公園』を見かけるが、どこもほとんど維持管理されてなく荒れ放題、何か一方的な施策か?