全然ブログは更新していなかったが神社巡りは天気の良い日を狙って進めている。今日は勝田郡から津山へのコースを!
R53号から52号で西勝間田駅方向へ

52号を進んで行くと西勝間田へ出る少し手前に石灯篭、奥の山際に赤い鳥居、前方の道を左折して進み前方山際を左折して進むと途中に、非常に道が狭いが、交通量が全くないと判断して急いで参詣
不明神社(金毘羅神社)
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鎮座地:勝田郡勝央町為本
由緒、御祭神共に不明

52号を進んで行き、前方R179号を左折して進んだ少し先の右手、何故かこれまで見落としているGoogle Mapに記載されて無いため、
八幡神社(遊屋八幡神社)
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鎮座地:勝田郡勝央町黒坂2-1
由緒:当社は大宅鷹取貞観元年神功皇后の御服帯及び忍熊皇子の千早の袖を戴き、貞観2年美作国勝田郡久魯佐佳の水清川の清野の山に宇佐八幡大神を祀ったのが始りとされる。応永31年赤松左京太夫満祐が弓矢を奉納したので弓矢八幡宮と改められる。天文16年神怒を慰めて弓矢八幡宮を改め遊屋八幡宮と改称される。慶長15年美作国津山藩主「森忠政」息女難産に悩み、当社神主水島岩見守に依頼、安産祈願を行い無事男子を出産することができたので、その御神徳を仰ぎ神領20石を奉納した。以後森家の祈願所と定められ、今日に至っても安産守護神として尊崇されている。創建以来、再建された記録が次の様に残っている。元徳2戌午年・永承3戌子年3月・建暦2丑年・弘安5午年・応永31年4月・天文15午年9月・慶長6年・天和3癸亥年2月・明治9年現鎮座地に移転され今日に至っている。
御祭神:譽田別尊、足仲彦尊、氣長足姫尊
神主さんらしき方が清掃を、今回最初で時間が勿体無いのであまりお話が出来なかった!

R179号を南東へ進み、『勝間田駅』を過ぎた先右手『大日化成』手前を右折して進み前方橋を渡って右折して進んだ先、公会堂の後ろ側
大崎神社
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鎮座地:勝田郡勝央町東吉田880
由緒、御祭神共に不明

少し引き返し『勝間田駅』の先から67号で北方向へ、前方にJA勝英の先を右折して東方向へ、前方右折して滝川を渡った先で355号へ、みちなりに進んで行くと前方に354号、横切った先を右折して進んだ右手(前に駐車スペース)
八幡神社
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鎮座地:勝田郡勝央町豊久田339
由緒:本神社は和銅6年に鎮座して美作国112社の1社である。明治4年に村社に列せられ八幡神社と改称された。
御祭神:譽田別命、高おかみの神、闇おかみの神
備前焼の狛犬を見ると、どうも盗難の事が思い出されつい念入りに(岡山南部での窃盗犯は捕まったのだが)

354号まで引き返し、右折して354号を北へ進み、R429号を越えた先の細めの道を更に進んで行くと前方右手に燈篭、そのまま北へ進んで行くと右手に鳥居、路肩に車を停め歩いて参詣
諏訪神社
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鎮座地:勝田郡勝央町河原1201
由緒:当社の創建年月は不詳であるが、河原鏡山に小吉野庄の総社として創建されたと伝われている。天平5年(733)9月20日庄内の住民が集合して大祈祷を行って以来、この日を大祭日定めたとされ、当日は縫い物、畑仕事を禁じられた。長久3年(1042)小吉野庄の氏子の総意により、信州諏訪大社の御分霊(建御名方命)を勧請し、合祀した。安元2年(1176)広戸風の大烈風で本社が大破したので、移転地を信州諏訪に似たところとして、風害の少ない現在地に再建した。神社の境内にある神木(びゃくしん・いぶき)は本社移転時に諏訪豊前守藤原安森宮司が手植えされたと伝えられ、樹齢800年の神秘な樹姿を見せる。また、十郎、徳丸(村人)の蛮勇で河原田圃開発の祈祷に使った伝承を持つ「雨乞い石」がある。
御祭神:建御名方命、速秋津姫神、素盞嗚命、譽田別命、大國主命、倭建命、大己貴命

みちなりに北から西へと進んで行くと前方に353号、右折して北へ進んで行くと前方にR53号、越えて更に北へ、前方Y字路を左手に進み、前方の突き当り(池の土手)を左折して西方向へ進んで行くと右手に石灯籠と建物(非常に何か分からない)
不明神社
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鎮座地:勝田郡奈義町成松
由緒、御祭神共に不明

更に西方向へ進んで行くと右手に石碑、ここで運よく地元の人に会い、宮内神社の位置を教えてもらうと、「このまま北へ進み、前方の自衛隊のフェンスを開けて進んだ先、案内板があるので間違えることはない」とのこと、実際に行ってみると鍵が掛かっており無理、少しバックして少し広めの処で何とかUターン。
元の処まで引き返し、未舗装の道を西へ進み、前方の橋を渡ったところに車を停め北方向へ歩いて進むと前方にフェンス(この奥に淡島神社があるはず)、左側のフェンスが開いていたので進んでみるがほとんど道無し、今度は右側から進んでみるがフェンスは太い針金で固定されており無理、諦めて東方向へ戻った処にあった広い道を南へ進んでR53号へ出ることに!

R53号へ出る手前に奈義町現代美術館と奈義町文化センター、美術館の方は何も催されていない感じ、文化センター前でここの職員の方と出会い、事情を説明したところ役場所職員に連絡をとってくれる、隣の役場を尋ねると出かける用事があるのついでに案内してしてくれることに、通常は番号合わせの鍵で、原則かかってない状態らしい
神社前まで案内して頂き、「フェンスを閉めること」と言われて別れる。
宮内神社
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鎮座地:勝田郡奈義町宮内639
由緒:本社は、昔那岐山頂に諾・冊の二尊が鎮座されていたが、なにしろ本国第一の高山であるから参詣するにも道は険しく、また冬季には寒風激しく、春になっても雪は消え残って御社の修理も思うに任せないので、和同三年(西暦七一〇)麓の村々に分霊を奉遷することとなり、諾の尊は成松村不老の森に、また冊の尊は宮内村字不老の森へ移って両村の氏神とした。諾の尊は男神であるから神山に女木を生ぜず、また冊の尊は女神であるから神山に男木を生じない。日本三代実録に五十六代清和天皇の貞観五年(西暦八六三)五月二十八日の項に、「廿八日庚寅、美作圀従五位下天石門別神・奈美神・大佐々神並従五位上」とあって、神階が一段んぼらせられたのであり、本国十三社の一社である。両村に奉遷の後、諾の尊を諾大明神、冊の尊を冊大明神と称していたものを明治四年、冊神社と改め、翌明治五年には北条県の成立に伴い、再び宮内神社と改めた。
御祭神:伊邪那美尊
Google表示は「那美神社」時々見かける間違い

西にある淡島神社:勝田郡奈義町滝本に関しては詳しくは分からない、フェンスを乗り越えて行ったらと言われたが、この神社は多分性器信仰、参道もあるかどうか分からないので中止

日本原演習場北側にある滝神社はフェンスに関係なく行ける』と言う話し、那岐池の西側を北方向へ行けば良いとの事だったが実際現場へ行くと未舗装の道、近くで出会った人に尋ねると「脇道が多く、車で行ってもかなりの距離を登る必要があり」、近くの滝神社での遥拝を進められる。

R53号ローソンの処(滝本信号)を北方向へ、途中に奈義町観光案内図、更に進んで行くと『那岐池』堤防の下側へ、西方向からはフェンスで無理、少し南へ戻り、左折して橋を渡り突き当りを右折、次を左折して進むと十字路、左折して坂道を登って行くと左手に、前の空地に車を停め参詣
瀧神社
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勝田郡奈義町滝本1973
1.沿革:当社は今から1200年前の白鳳年間、藤原鎌足の孫 武智麿が中国地方平定のため、紀州熊野権現を当地に勧請し社殿を建てたと伝えられている。爾来北野村東西と近藤村の氏神として尊崇されてきた。近世、美作国津山城の鬼門の守護神として森公の信仰厚く鳥居や石の宝殿が寄進された。明治の末頃まで『お瀧参り』とよばれ、作州全域から多くの崇敬者が参拝し、例祭日には日本原から続く松並木は人の列で賑わった。
2.本社:滝山の中腹に位置し、原生林に囲まれた「奥の院」から「母御の瀧」に続く岩間の清浄な地に祀られ、ある時期には修験道の霊地として女人結界の地でもあった。明治42年滝山山麓一帯が陸軍演習場に設定され、近藤村の氏子は余儀なく移住する事となった。
3.遙拝所:参道が自衛隊の演習場のため、本社への参拝が制約された。従って、里宮としての遙拝所が大正4年に造営され、大正12年には郷社の格が与えられた。平成元年に遙拝殿を再建、平成3年社務所等の管理棟を建設、平成11年遙拝殿等の造営記念碑建立、平成12年国旗掲揚台・国歌歌碑を建立、平成13年玉垣建立によって一段と神域が整備された。
4.社地: 瀧神社創立以来172ヘクタールの社地は明治4年の上地令により、境内の一部を残して国に接収されたが、昭和26年神社の歴史的伝統が認められ大蔵省より山林33ヘクタールが無償譲与された。なお、本社参道周辺の原生林は永代保護管理を続けている。
御祭神:伊邪那美尊、滝大領権現

再度R53号まで戻り西へ進み、『日本原東』信号で右折して演習場沿いに北へ進んで行くと前方左手に
廣戸神社(御神幸所)
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鎮座地:津山市大吉
肝心のこの場所を忘れており、この近辺の荒神社参詣後に、
廣戸神社
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鎮座地:津山市大吉1017
由緒:当社は第49代光仁天皇宝亀元庚戌年(770)山城国男山八幡宮を廣戸村奥津川字宮谷に勧請し、廣戸八幡宮と称した。その後文治5年(1189)3月大吉字宮の奈留に社殿を移した。応永5年(1398)同地字平野の現在地に移した。天文3年(1536)正月16日尼子大将三好安藝守が廣戸矢櫃城を攻めた時、「大吉八幡宮を焼き払い此軍に利があれば新に建立し松藤を植奉らん」と祈願したところ霊験があり、忽ち落城した。よって社殿を新築し松・杉・藤を植えた。松は風の為倒れたが、杉・藤は現存しており、尼子杉藤と云えられ、現在も繁茂生長している。天和3年(1683)美作國主、森伯耆守長義から再建費及び琴一面を寄進された。明治5年廣戸神社と改称した。大正2年12月9日村社山神社、無格社風神社、境内神社9社を本殿に合祀し、更に境内神社無格社34社を無格社愛宕神社へ合祀した。大正3年8月神饌幣帛料供進神社に指定された。
御祭神:品陀和氣命、息長帶姫命、大山祇命、武内宿禰、須勢理毘賣命

更に基地沿いに進み、基地と離れかけた先を左折して基本的に西方向へ進むと前方に
荒神社
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鎮座地:津山市大岩
由緒、御祭神共に不明

神社前を北へ進み、前方の池を南から廻り込んで更に北へ進んだT字路に車を停め東方向へ(車で十分可能)
荒神社
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鎮座地:津山市大岩
由緒、御祭神共に不明

車まで引き返し、北へ少し進み、直ぐ左折、突き当りを左折、すぐ先を右折して進んだ右手
船尾荒神社
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鎮座地:津山市大岩
由緒、御祭神共に不明

此処で肝心の廣戸神社(津山市大吉1017)を忘れているのに気付き、先ほどの池の北まで引き返し東へ進んで行くと五穀寺の東隣に、前に池と小島に祠があるが不明

神社前の道を西方向へ進み450号へ左折して進んで行くと、前方左手に広戸小、その先を右折し、突き当りを左折して進み、次の三叉路を左手に坂道を登ると左手に石垣、此処を強引に登って行くと前方に神社-450号沿いから参道が在りそうだが未確認
天一神社
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鎮座地:津山市市場
由緒、御祭神共に不明

一旦R53号に出て西へ進み『工門』信号で右折して348号を進み、新野小先を右折して北方向へ進んで行くと右手に鳥居、路肩に車を停め畦道を歩いて参詣
三寳荒神社
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鎮座地:津山市西中
由緒、御祭神共に不明

更に北へ進み途中、前方に土手の処を左折して西方向を新野山形を目指し、途中右折して細い坂道を登って行くと前方に参道?、右手に民家-此処で尋ねるとこの道は車では無理、此処に車を停めて歩いて参詣しようと思っていると下の畑に居た人が左手の道を進み前方の道を北へ進んで行くと良いと教えられる。-駐車スペースも十分な処、鳥居も
八幡神社
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鎮座地:津山市山形2235
由緒:本神社は美作112社内の神社で、天平10年(738)字宮山に社殿を創立し、美作守大伴兄麿氏が宇佐八幡宮の御分霊を勧請し、上山八幡宮と称した。本神社は雅野郷の一宮で、旧八カ村の総社であった。寛文年中(1661〜1673)美作国主森長継公が武運祈願のため、甲冑一領・緞子・幡十二流を、元禄年中(1688〜1704)国主松平長矩公が剱一口・茶椀・三宝各一箇を、同6年国主森長成公が雨乞いのため、米六斗六升を寄進している。明治6年郷社に列し、八幡神社と改称した。
御祭神:品陀和氣命、天之御中主命、大雀命

深く考えなく南西を目指して広い道を進んで行くとスポーツ公園南でR53号へ、津山方面へ進み、手前の『天神橋』信号で右折し、2つ目の信号を右折して進むと左手に鳥居、とても車を停める場所はない、近くの私有地へ車を停め急いで参詣-西側から車でも行けそうだが?、高福寺の駐車場へ置くのが一番無難か!
大隅神社(大隅大明神)
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鎮座地:津山市林田755
由緒、御祭神共に不明

少し遅くなったので帰宅、コースとしてはR53号で、少し遅いせいかもしないが意外と空いていた!