毎年恒例の女房のわざわざ津山での講習会の運転手、先ずは通常コースで津山に、今回は鶴山公園へ、これまでの津山文化センター前の駐車場でなく、394号から『鶴山西口』信号を右折して進み前方右折して進むと通行止めの表示、その手前にある駐車場へ停め、ワンコとしばらく散歩して、後は可哀想に、車の中へ置いて鶴山公園に、今回のんびりと来たわけではないが、これまでの衆楽園の平地と違い、さすが城跡、高低差と階段、そして広さにとられて時間が足りない、足の悪い奥さんを置いて超スピードで散策、お祭りを催しているが土日用か、準備中、唯一空いていたホルモンうどんを食べるが、以前人気店で食べた物には到底及ばない。女房を市役所の隣りの津山市社会福祉会館へ送り届け、津山街中の小さな神社散策へ!
南へ戻り、文化センター処を右折して西へ進み、かなり進んだ先吉井川と出会う手前の『小田中』信号の南側の空地に車を停め、通りから見れるが入れないので、南から廻り込んで参詣
義信神社
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鎮座地:津山市安岡町
由緒:創建:嘉永初年(1848~1854)、祭礼:夏祭7/下旬 秋祭10/19
城下町の整備当初は宮脇町にあった大番所までが城下で、茅町と安岡町は城外とされていた。その頃、安岡町に住んでいた紀州の浪人渡邊藤左衛門義信が、自らの命をかけて城下編入の直訴を行い、義信の命と引換えに城下町に加えられた。その後、安岡町と茅町は整備が進み、出雲街道の両側に商人町として大きくなった。両町内の人々は義信の義挙を尊び、妙勝寺にお墓を建立し、さらに安岡町に義信神社としてお祀りしたものである。
御祭神:渡邊藤左衛門義信

せっかくだから以前参詣した新屋敷荒神社:津山市小田中新屋敷1438へ、次に「聖徳寺」内にある『和霊大明神』へ、南側の道を南東へ進み、前方広くなった五差路を手前を左折して進み、直ぐの十字路を直進して北へ進と聖徳寺、前の駐車スペースに車を停め寺内へ
和霊大明神
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鎮座地:津山市小田中1416
由緒:創建:元和年間(1615~1624)以降、祭礼:7/30
和霊大明神は厄除けの神として、また願い事は必ず叶えてくれるという名高い神様。祭神は、山家清兵衛公頼公(やんべ せいべい きみよりこう)といい、伊予の宇和島藩の家老で、藩主を助け藩政上に手腕をふるい大いに治績と名声をあげたが、これを怨みに思う者の謀略にあい「われに救いを求める者には、われ必ずその願いを聞かん」と言い残して息を引き取った。時に元和6年(1620)夏、清兵衛42歳。その後、藩主が山頼和霊神社として、公を祭神としてお祀するに至った。聖徳寺はこの山家清兵衛公頼公を祭神とする和霊神社の分神を当寺の鎮守として祀っている。一説に、社殿は嵯峨山麓のお福神社を移したものといわれる。
御祭神:山家清兵衛公頼公

お寺前の道を北へ進み、先ほど通って」北広い道を横切り突き当りを左折して進み次の道を右折して進むつもりだったが道が狭そうなので、先に進み、前方を右折して進み次のY字路先へ車を停め、右手の道を進み、次を左折して坂道を登って行った右手『神田公会堂』に併設して
神田荒神社
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鎮座地:津山市小田中
由緒:創建:不詳、祭礼:夏祭7/12 秋祭10/12
慶長9年(1609)からの築城の際に、各小川の流れを吉井川に集めた。この時、新田地区を流れていた紫竹川の支流が廃川となり、これが新田の開拓の源となった。新田が神田となったのは、氏神様の徳守様が元々この地にあり、その後に宮脇町に移されたことから神の地として、神田と改名し現在に至っている。荒神様は、古来より神田の守り神として厚い信仰を集め、春の田植えが終わると「しろみて」と称し家族揃ってご馳走をお供えし、又、お籠と称して住民が集い懇談交流の場としても大切に扱われ毎年お祭りが行われていた。戦後は人心が荒廃し、各行事や祭礼も行われなくなり、徳守神社内に移したが、神田町内に於いて相次ぐ災難が続発したため、荒神様を粗扱いしたことが起因したのではないかとのことから再び、町内の守り神として神田の地に遷宮された。夏祭り、秋祭りには徳守神社の神官様をお招きして祭礼を行っている。
御祭神:荒神様
結果当初予定のコースで可能であり、停車も可能か!

津山市内は慣れてないので位置関係がほとんど分からない、再度聖徳寺へ引き返し、その先の五差路へ、左手の道を東へ進んでいると愛染寺前、妙法寺境内に、隣りに三十番神が
鬼子母神/妙法寺内
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鎮座地:津山市西寺町65
由緒:創建:不詳、津山中学校(現津山高校)の校舎が建設されるとき、いま校庭になっている一部に墓地があり、そこにあった石像の鬼子母神が妙法寺に移された。鬼子母神は日蓮宗の仏神で、人の子を食う鬼女が、釈迦の説法で前非を悔い改め、菩薩になったというインドの訶梨帝菩薩を日本に移し、鬼子母神(きしもじん)というようになった。
御祭神:訶梨帝菩薩

前方の道を右折して進み、本行寺前に車停め、前の道を東方向へ進んで行き左折、右折した処
新高倉稲荷神社
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鎮座地:津山市西今町
由緒:創建:嘉永元年(1848)、祭礼:夏祭7/28 秋祭10/28
西今町の山手屋江原市右衛門が、嘉永元年(1848)渓華院の寺院鎮守神と併せ西寺町の守護神として祠を建立、新高倉稲荷大明神と号して祭祀した。嘉永3年(1850)徳守神社境内に末社として移したが、その翌年再びこの地に祠を建て祀った。大正初期渓華院の寺院移転後は、西今町の守護神として祭祀されている。尚、徳守神社境内には今も高倉稲荷神社をお祀りしている。 
御祭神:宇迦之御魂大神

真直ぐ南へ進み『鉄炮町』信号へ、北角の空地へ車を停め、南東の裏側を探すが参道が全く分からず、「豊福歯科」の処を強引に入って行く-結果東側に参道在り-歯科前の道を東へ進み、T字路を右折して進むと右手に参道
七五三稲荷大明神
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鎮座地:津山市鉄砲町
由緒:創建:不詳、祭礼:夏祭7/28
森藩の銃卒を置いたことから、鉄砲町とされる。古くは西鉄砲町といっていたが、林田町から中之町の土手筋の東鉄砲町が廃されてから西の字は消えた。鉄砲町の旧土手の遺構のところ(西端の通り)に七五三稲荷と繁守稲荷が鎮座している。このうち七五三稲荷大明神(おしめさま)は古い。もとはもっと上の旧土手のところにあったが、変転の末、明治に現在の地に移された。繁守稲荷はその時、伏見稲荷を勧請して新しく建立。「おしめさま」の御神体は盗難にあい、もとの成り立ちは不詳。
御祭神:宇迦之御魂大神

次は徳守神社の境内の末社を確認に、前の道を東へ進めば分り易いのだが西方向への一方通行、先ほどの東方向の道を進み、橋を渡った先の左手空地に車を停め歩いて北側から参詣、特に紹介されていた阿花善神社,住吉神社を確認
徳守神社:津山市宮脇町5
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北東方向の街を歩き回るが全く分からない、出会った人に聞いてやっとわかるが、いずれも建物の中とか参詣できない建物の後ろとか分からなくて当然か、『上紺屋町会館』の中に、ここはガラス越にやっと確認できる
浮田神社
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鎮座地:津山市上紺屋町
由緒、御祭神共に不明

ここはもっと分かり難い、『坪井町公会堂』の裏らしいが、この建物が分かり難い、自転車屋の看板の処に路地があるが、手前に鍵が掛かっており参詣無理
髙守神社
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鎮座地:津山市坪井町10
由緒、御祭神共に不明

天気も悪くなって来たのも含め大した神社がないので退屈気味、分かり難いのが余計に疲れるが次を、前方へ進み、68号を左折して北へ、前方右折して進んだ『記念病院』手前の路肩へ車を停め前方右手の「もとうお商店街」を南へ進み、右折した先左手の二回に-当然ながら中には入れない
白玉稲荷大明神
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鎮座地:津山市美濃町
由緒:創建:慶長年間(1596~1615)以降、祭礼:夏祭7/28 秋祭10/28
東西の通りに面した美濃町会館の二階部分に鎮座する珍しい社。
 この美濃町は森忠政が、築城に備えて美濃の国の大工などを住まわせた町といわれ、かつては美濃職人町といった。白玉稲荷大明神の「白玉」に関しては不詳。はじめこの辺りに住んだ五人組頭種谷氏の屋敷神であったといわれる。その後、時代の変遷とともに移り変わり、今では美濃町の町内神として祀られている。
御祭神:宇迦之御魂神

元へ引き返し、今度は東へ、津山保育園脇を進み階段を登り戸を開けて右手に進んだ右手
御倉稲荷神社
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鎮座地:津山市山下
由緒:創建:慶長年間(1596~1615)以降、祭礼:夏祭7/28
山下の津山保育園北側にある御倉稲荷。歴史は古く、森藩時代にこの辺りに藩の詰米御蔵があり、その守り神としての存在という。それゆえに、「御倉」の名にその意義が伝わり残った。稲荷信仰は平安初期に史上に現れたが、もとは農耕の神で、五穀を主宰する倉稲魂命(うかのみたまのみこと)を祀った。後世には地区の守護神として、また殖産の神としても栄えた。
御祭神:倉稲魂命

女房迎えの時間も近付き、もう少しと思うが適当な駐車場所が見つからないと大変!一旦西へ引き返し、前方68号を南へ次の信号を左折して『ハピーズ』方向へ、八頭神社前に車を停め、ハピーズ南東を目指す
三寶荒神社
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鎮座地:津山市新魚町32
由緒:創建:不詳 森忠政入府以前の戸川宿時代より鎮守、祭礼:夏祭7/28 秋祭10/28
新魚町は延宝2年(1674)の開設。この頃榎の側に祠を造り直す。天保年以降は新魚町東分の鎮守社として祀られ、今の本殿は幕末の慶応2年(1866)の創建と伝承される。参道は松平侯時代までは堺町からで、現在の南から入る参道は吉元宗治郎寄進により明治24年に設けられた。
 神門は明治25年頃(1982)、石鳥居は同33年(1900)に造られた。末社の阿波神社は田渕屋(遠藤家)、御先神社は船頭町の俵屋(山口家)の建立。後者は稲荷信仰から派生した。荒神は火の神、かまどの神、囲炉裏の神である。神額は、第35代内閣総理大臣/平沼騏一郎の染筆奉納によるもの。三宝荒神社の御神輿(平成23年修理)は、明治16年に入江左治郎、芦田熊太郎等発起により、徳守神社の神輿を型取し奉納。以前の神輿は、小性町 三橋神社へ譲渡された。
御祭神:火産霊神、奥津比古神、奥津比売神
ビルの影のせいか非常に暗い

未だ廻るべき神社はあるが今回は此処までにしてお迎えに、役目を果たすべく乗っけて帰宅の途に