岡山県内神社巡り(メイン)

片っぱしらからの神社巡り

2014年11月

和田八幡宮

今日は我家の御霊移しの儀式
田舎に誰も済まなくなりお墓も兄夫婦の近くに移すことになった。
簡単な神道の儀式だが、今後益々生家に行くことは無くなりそう。
終わった後ちょっと足をのばし参詣

和田八幡宮
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鎮座地:岡山市東区楢原974
由緒:社伝によると、本村が昔海岸であった頃、和田津見神を祭祀し、東南の山上に鎮座していたが、清和天皇の貞観元年(859年)に八幡宮を合祀し、寛文3年(1663年)2月に現在地の和田の御崎に御遷座し、和田八幡宮と奉称した。明治元年に八幡宮と改称し奉った。
御祭神:綿津見大神、応神天皇

附近はよく通っていたのだが、具体的な道がよく分からずまだ未参拝だった。竹原からバイパスの側道に入り、どんどん進んで行くと、右側にバイパスを潜るトンネル、潜った先に神社。
トンネルを又潜り、少し先に行った処に左手に行く道、この道を行くと旧山陽道へ出る。
この道は姉の婚家先から、西大寺の叔母さん(亡くなっているが)へ行く時いつも通っていた道、合流した先に燈籠と参詣道がある。これまで全く気が付いていなかった。
竹原神社の紅葉の様子を見ながら帰宅。ちょっと気取った服装なので、寄り道がし難い。

総社以西-豪渓手前の神社廻り

今日は紅葉は終わったが180号を通り総社(伯備線以西)、豪渓方向を目指す。
180号を進み伯備線を越えた直ぐ先、左手人形会館を左折(Uターン気味)JA倉庫の裏側(歩いて)倉庫の陰から神社は見えるが参詣道が分からず。よく見える北側から強引に進み参拝、南側に道があり、東から団地(アパート)の間に道があるが難しい。
荒神社
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鎮座地:総社市総社
由緒、御祭神共に不明

180号へ戻り溝口信号左折、直ぐに左手道路際に鳥居、奥に神社が見える。
一木神社、疫神社
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鎮座地:総社市溝口76
由緒、御祭神共に不明

更に進んでエビスパンの裏(両サイドに獣医とペットショップ)
伊峠諾神社
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鎮座地:総社市真壁1136
由緒、御祭神共に不明

前の道(R486号)を先に進み、信号を左折(421号)カルピスの手前左側道を進む最初の細い道を左折、進んで行くと右手に鳥居、左折する前に車を停めて歩く。ダイキ総社西店の東、ここに車停めた方が無難、歩くと意外と広い道、(北に進み、川沿いに進んで行くと180号へ)
嚴島神社
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鎮座地:総社市真壁935
由緒、御祭神共に不明
北に進み、川沿いに進んで行くと180号へ

元の道を無難に引き返し180号へ戻り、次の信号(misterDonut先)を左折、少し進んだ左手木立、最初の道を左折し進むと左手に石柱、ここも無難に手前に車停め歩いて参拝、車でも十分可能、先に広めの場所もあり。
青木神社
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鎮座地:総社市井尻野27
由緒、御祭神共に不明

元(180号)へ戻り井尻野の信号を右折、しばらく進むと右手に木立、先の十字路を右折、直ぐ右手に石柱が見える。ここも無難に車を停めて歩く、ロープが張られ通行禁止(私有地になっている)強引に進んで行くと神社が、帰りは神社と団地の間を通って帰る。
天満神社
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鎮座地:総社市井尻野1705
由緒、御祭神共に不明

先ほどの十字路へ引き返し、最初勘違いして右折、伯備線に突き当る。手前を左折して北へ進めば『宝福寺』後で分かったことだが東側の駐車場の方がすいていた。
慌てて元へ引き返し、北に向けて直進、ゆっくり左手を見ながら進むと石柱が奥に見える。(先に進んで行くと左手の森(神社)は行き過ぎ)
近くに車を停め、歩いて参道の標識を進む、近くの人が言っていた通り神社跡、道も全くなくなっている。
和霊神社
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鎮座地:総社市井尻野
由緒、御祭神共に不明

少し進んだ左手に祠が見える、1本西の道だが、どの道も狭そうでかなり先でY字路まで進み、引き返す感じで進む、途中非常に狭い処あり、ミラーを倒して何とか進める。
摩利支天
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鎮座地:総社市井尻野
由緒、御祭神共に不明
次は少し南へ進んだ所に広めな元の道へ行ける道があり。

当初通り道を進んで行くと先ほどのY字路の手前右手奥に
正一位稲荷大明神
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鎮座地:総社市井尻野
由緒、御祭神共に不明
旗は稲荷神社のものだが荒神社らしきものもある

先に進んで行くと左手小さな川に出会い、少し進むと宝福寺・秋葉山表示、道なりに進むと前方に駐車場、ここに車を停める。宝福寺はやはり有名なのか、紅葉シーズンが過ぎていても人が多い、駐車場の満車状態、後で行った分かったが東側(表側)の方が少ないようだ。
通行止めになっているので、よく分かってない五社神社を先に探す。平日にもかかわらず結構人が多いと感心しながら、進んで行くと『宝福寺』南側に鳥居、南方向へ進んで行くと神社が見える
五社神社
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鎮座地:総社市井尻野1976
由緒:神社創立の時期は不明であるが、井山宝福寺を守護とする神社として宝福寺が祭祀を行っていたが明治の初めに、国の定めた神仏分離令により井山町内の氏神として祀られるようになり今日に至る。
御祭神:賀茂大神、石清水八幡神、春日神、日吉神、稲荷神、他に境内神社六社

『宝福寺』西側を北方向への通行止め進むと前方に階段が、どうも改修中で通行止めになっているのか
金龜嶺神社
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鎮座地:総社市井尻野
由緒、御祭神共に不明

元に戻り、180号へ出ずにそのまま北へ、180号へ出会う直前、右手に、神社前の空き地はロープが張られている
井神社(兼康神社)
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鎮座地:総社市井尻野928
由緒:本神社の創建年月日は不詳ではあるが、延喜式上に備中国堰溝料1万7千束とあり、高梁川流域では最大規模の井堰を守護される井神社は、当時既に存在していた。安徳天皇寿永元年(1182)に備中国妹尾郷(岡山市妹尾)の武将、妹尾兼康が自分の領地に水を引くために、総社市井尻野六本柳にあった高梁川の堰を200メートルほど上流の湛井(たたい)に移し、樋門を設け、妹尾までの農業用水路を構築した。現在は湛井12カ郷用水の名前で親しまれており、総社から児島湖に至る約3800ヘクタールの水田を灌漑する西日本有数の農業用水路である。難工事であった堰と用水路の完成に感謝して、妹尾兼康は井神社の社地を湛井堰(たたいせき)の近くに移し、新しい社殿を建立し、神社の祭典、維持、運営について詳細な掟を残した。これにより、井神社の氏子は、地元氏子の外に、農業用水を利用する氏子「水氏子」で構成されている。妹尾兼康の偉業を讃え、恩恵に感謝して、井神社、兼康神社として合わせ祀るようになった。このような経緯により、毎年6月1日には水氏子関係者による「初堰祭」を斎行し、当年の豊かな水の恵み、五穀豊穣、家内安全を祈願した後に高梁川から取水を始める。
御祭神:罔象女神、水分神、妹尾兼康公

R180号を進み、豪渓駅の手前明治橋右折し、57号を進む、高速の手前、右折出来る道の奥、道路際に車を置き歩く
足王神社
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鎮座地:総社市見延
由緒、御祭神共に不明

57号を進み高速を潜ると左手に橋、橋を渡り、右折、次を左折、先のT字路を左折、道なりに進み、高速を潜り進むと広場、階段を登る(最初の処をUターン気味に廻ること、先に行くとほとんど通行していないらしく、Uターン難しい。また、階段は結構ある、高速道路を眼下に見下ろし風景は良いが結構しんどい。神社も祠があるだけ、高速道路開通でどうにかなったのか。 
御崎神社
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鎮座地:総社市見延
由緒、御祭神共に不明

同じ道を引き返し、山道を登った最初のT字路へ、右奥にある墓地の間を北へ進んで行くと山の斜面に沿って参詣道が、最初はかなりな急勾配、後は平坦な道を進むだけ、先ほどの御崎神社より見下ろせた場所に見えて場所通りである。これ以上登らなくていいことが分かっているのでかなり気楽
和霊神社
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鎮座地:総社市見延
由緒、御祭神共に不明

山際の道を先に進むと左手に鳥居が
荒神宮
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鎮座地:総社市見延
由緒、御祭神共に不明
少し引き返し東へ進み57号へ出る

ここまで来たのだから、先に豪渓を目指す。ここには神社らしきものは見当たらないが、ほとんど散ってしまった紅葉を少し楽しむ。人もほどほどで感じは良かった。

57号を引き返し左折して307号、車を停め赤い橋を渡る。車が通れない感じではないが、念のため車は道路わきに停めておく。しばらく進むと地元の人が清掃を行っていて、車が道を塞いでいるので正解だった。去年が創建百年蔡を行ったばかりとのこと、地区の人々も神社をよく盛り上げているとのこと。しんどいが結構高い位置にあるが張りきって登って行く。神社にも清掃している地区の人が。しばらく他の神社のことを話しながら参詣し、別れる。
池田神社
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鎮座地:総社市槇谷
由緒、御祭神共に不明

このまま引き返す。秋葉神社へ寄るつもりにはなっていたがしんどくてやっぱり中止にする。
以前直ぐ近くの人に知らないと押し切られた神社とカメラのバッテリー切れの神社(御崎神社)をまわって帰宅する。

帰る途中、前に近くの人に「この辺りには神社は無い」と言い切られた神社に寄る。ストリートビューを見ると明らかに鳥居が見られた。
荒神宮
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鎮座地:総社市東阿曽
由緒、御祭神共に不明

津山での神社廻り

今回は女房の講習会への出席に付き合い、津山での神社廻り。
岡山から延々とR53号を走り、吉井川を渡り北へ直進、山北信号(右前方津山商業)を右折、右手『津山市総合福祉会館』、今回の起点、時間があったので衆楽園、鶴山公園等で時間をつぶし、女房と別れ神社廻りへ

最初から狭い道を避け、山北の信号を左折し南へ、椿高下信号を右折(394号)し進み城代橋信号を右折(68号)し北上すると前方左手に大きな神社の屋根が見えてくる。その方向へ向かって斜めの位置を左折し入り、進んで行くと、鳥居が、その参道の隣の道を左折して進み、神社前を右折して廻り込み神社横の駐車場へ車を停める。小高い丘の上にある大きな建物だけの神社、でも建物には圧倒される。
美作総社宮(総社)
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鎮座地:津山市総社427
由緒:当社は、社記によると欽明天皇25年、大巳貴命(大国主命)を字本館(西方約1キロ)に祀ったのがはじまりと伝えられ、和銅6年(713)備前国から6郡を割いて美作国が置かれ、その翌年、国府がこの里に開庁された。その後、美作国司が今の社地、亀甲山に社殿を移して大巳貴命を主祭神として、一宮中山神社、二宮高野神社の両大社をはじめ、美作65郷のすべての神祇を合祀して総社宮と名付け、その後およそ500年間歴代の国司は皆この御神意を奉じ国内の政治を執り行った。鎌倉時代になって国府がすたれた後も、この社は美作三大社の一つとして広く士民より崇敬され、近世のはじめ美作国主の森氏は多くの神領を寄進し、後の松平氏も祭粢料(さいしりょう)を奉納し、明治維新後は県社に列せられた。現在の本殿は、永禄5年(1562)に毛利元就が造営したもので、明暦3年(1657)に国主森長継が大修理を加え、昭和7年国と氏子崇敬者の協力により解体修理が行われた。この社殿の造りは、入母屋妻入で向拝に千鳥破風を配した独特な様式を持ち、規模も豪壮で華麗な彫刻を豊富に配置した桃山時代のすぐれた建造物で、全国の総社の内で当社のみが大正3年に国宝に指定され、現在は国の重要文化財に指定されている。
御祭神:大己貴命

元来た道を引き返し、68号に出た先の信号を進み進んで行くと右手に神社が見えてくるので、前に車を停め参拝する。
鶴山八幡宮
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鎮座地:津山市山北159
由緒:当社は、往古から鶴山頂上(現在の津山城跡)に鎮座していたが、慶長8年森忠政公が美作守として美作一国を領して入府し城下町建設にとりかかり、この山を城地に選定、築城するに当たり、先ず当社を一旦、城南覗山(のぞきやま)に遷し、その後慶長13年現在地、山北八子 不知夜山(やまきたやご いざよいやま)を神宝の地と占い、又御真意と符合することから八幡大神を崇敬し御社殿を造営して再遷座された。その後寛文9年には、森家二代藩主長継公により壮麗極彩色の御社殿を建立し、社領として50石を寄進するなど森・松平両家代々と縁深き神社で藩士からも文武の祖神として崇敬された。社殿の彩色は創建当時よりは薄れているが、三手先の組み物から軒まわりの華麗さは他に例を見ないもので、江戸時代初期の建築様式として貴重なものである。昭和31年4月1日拝殿、釣殿、神供所が末社薬祖神社と共に県重要文化財の指定を受け、昭和55年5月31日には御本殿が国指定重要文化財の指定を受けた。慶長15年・寛永12年・寛文9年・天明7年・文政5年・嘉永3年等の棟札が現存している。現在は津山地方北部の大産土神として崇敬されている。また、鶴山東山麓宮川沿いに鎮座せる千代稲荷(せんだいいなり)神社は、当神社の摂社であった。
御祭神:譽田別尊、神功皇后、玉依姫

前の道を南に下って394号へ、右折して先に進み城代橋信号の先の細い道を入るつもりだったが交通量多く難しかったので、少し進み、右折しやすい場所で右折し、一本北側の道を右折して進むと鳥居が、とても前には停めれないので、参道の右側の道を左折して登るが、神社へはチェーンが張られ入れず、隣の空地へ駐車する。
白加美神社
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鎮座地:津山市小田中254
由緒:第四十四代元正天皇の御代美作国戸川の宿の北の現在地に美しい五色の虹が輝き渡った。
苫田縣主藤原通憲が驚いて里人にその所を掘らしたところ、数尺も掘らないうちに神代の霊物と思われる、とても美しい璽が出た。その時忽然として一人の老翁が現われ告げるには「我はこの月輪田原に居る神である。この所に降居して久しいが、国人はまだこの地が霊地であることを知らない。汝を見るに心浄く性直で民を撫し、敬神の念篤く我は汝の誠心に感じ入っている。汝はこの神璽を奉崇し神籬を営んで天照大神より__草葦不合尊に至る五神を奉祭すれば陰陽五行和合し、国土平安し国人安穏なるべし」そして忽ちその姿は見えなくなった。通憲はそのお告げを畏み、そして急いでこの由を朝廷に奏上した。朝廷ではこのことを議し、「これは国中無双の霊地であろう速やかに神の教えの任に神籬を造営し、神璽を奉祭せよ」と勅命が下った。時に養老四年(720)であった。養老七年三月十九日に正遷宮が行われ、朝廷より三十町歩を神田として賜わった。神亀二年(725)に白加美大明神と奉称した。爾来朝廷を尊崇し、往時は戸川宿で毎月六度の市が開かれ、国人此地に会集し、財産を交易し、当日集まった人々は悉く当社に詣で財貨土毛を奉じ、福を祈り禍を祓った。その後森候入封の時社領は召し上げられたが、慶長十九年(1614)森 忠政候が二百八十石の社領を寄進、寛永十二年(1635)森 長継候から二十石、元禄九年(1696)森 長成候から二十石を寄進された。森家廃絶後は社領を召し上げられたが、松平家では封内八社として年々寄付米を奉納され明治に至った。明治初年に郷社に列した。現在の社殿は弘化年間(1840年代)である。
御祭神:天照大神、天忍穗耳尊、瓊瓊杵尊、彦火火出見尊、幸魂月夜見尊、鵜葺草葺不合尊

神社前を東に進み、城代橋信号で右折、進んで行くと右手に鳥居が、南側の駐車場へ車を停め参拝
出雲大社美作分院
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鎮座地:津山市田町87
由緒、御祭神共に不明
岡山にもあるような結婚式場が主?

上記神社の直ぐ南の信号を東へ、直ぐの道を左折北上すると左手にひっそりと存在する。
御先神社
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鎮座地:津山市田町
由緒:創建:寛永年閣(1624~1643) 以降、森家の家臣吉田作左衛門が、二宮高野神社境内にある御先神社を寛永年間にこの地に勧請した。吉田邸は刃傷沙汰の伝承のある侍屋敷。
その話に絡んで稲荷神の「うかのみたま」のお使いである狐を屋敷神として杷ったもの。
現在の社は明治時代の建造である。
御祭神:お稲荷様=倉稲魂命(うかのみたまのみこと)

68号を南下、信号の手前を右折、直ぐ左手に赤い鳥居が見え、前に駐車場がある。
高松最上稲荷分院蓮照院
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鎮座地:津山市福渡町
そしてすぐ前に道を挟んでひっそりと、民家に囲まれ詳細は不明
安産稲荷神社
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鎮座地:津山市福渡町
共に由緒、御祭神共に不明

先ほどの神社の前を進み、最初の角(突き当り)を右折すると先に鳥居、神社前に車を置く。
徳守神社
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鎮座地:津山市宮脇町5
由緒:当神社は聖武天皇の御代天平5年(733)の鎮座と伝えられているが、現在の津山市小田中の地に祀られていた。 天文8年(1539)火災に遭い社殿を焼失し、再建された本殿は現在、境内摂社の住吉神社となっている。慶長8年(1603)美作の国18万6500石の国主大名として入封した森忠政(森蘭丸の弟)が津山城を築くにあたり、現在地に移して津山城下の総鎮守とした。現在の社殿は第2代森長継が改築したもので、県指定の重要文化財となっている。明治5年に県社に列せられた。氏子は津山市の中心部56町内に亘り、作州第1の大社である。例祭(秋祭)の御神幸は、供奉300人を越え、全長500メートル輿丁150人を要する神輿は、日本3大神輿の1つといわれる。節分祭の追儺行事も近隣に比を見ない盛儀である。「徳守」の社号は、勅使として参向した清閑寺大納言藤原徳守の名に因むというが、定かではない。境内末社の善神社(祭神 お花善神)は、津山藩森家の家老原十兵衛に仕えた美女お花が横死し、その霊を慰めるために祀られた社で、婦人の守り神として知られ、特に逆境にある女性に霊験あらたかである。境内に赤穂47士の一人神崎与五郎則休の歌碑「海山は中にありとも神垣の隔てぬ影や秋の夜の月」があるが、神崎与五郎はもと津山藩士、徳守宮を深く信仰し、討ち入りにあたっても徳守宮を拝したということである。
御祭神:天照大日瑠女命

吉井川近くまで南下、68号南新座信号東へ、新大橋信号左折、進入禁止のため、橋を渡り川沿いを北へ、赤い橋と赤い神社が対岸に見えてくる。近くに車を停め歩いて赤い橋を渡り参拝する。
千代稲荷神社
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鎮座地:津山市山下82
由緒:承平四年九月十九日(人皇六十一代朱雀天皇の御代)是の日、天気清朗で、お山は錦に輝き、山頂にある八幡様の大杉は天を摩し、神樹として辺りに威を放って居りました。里人は、手に手に御酒を携え、境内に集まり、種々のお供を奉げ、豊穣をお祈りし、酒を酌み交わして居りました。丁度その時、一羽の鶴が、矢のように穹天より舞い降りて、大杉の天辺に止まりました。里人は手を拍って大いに喜び、この鶴をよく見ますと、嘴に一把の稲を啣えて居りました。やがて瑞鳥は、人々の頭上を、大きな輪を画いて舞い遊び、其の稲を神前に落すと、東へ指して翔け去りました。里人は、之を祥慶を招くものと深く珍重し、この籾を翌年、神田に植えたところ、畦が隠れる程の収穫がありました。里人は大へん悦んで、大杉に五穀の神が降臨されたものとして、壇を築いて鶴の千歳を冠し、千代稲荷神社とあがめ、五穀の神、倉稲魂(ウガノミタマ)之命を御祭神としてお祀り致しました。そして此の大杉のある山を鶴山と呼び、毎年神田で穫れた新米を御供えするのが習わしとなりました。森忠政が築城の折、一時城南の覗山に遷し、後に山北の八子に移されましたが、寛永十一年森長継公の時、「鶴山に遷れば永世城の鎮護とならん」との夢の神告により、神祠を城郭の北隅の石垣の下(現在の地より五丁程上の処)に遷し奉り、神殿を新たに造営して上下一同篤く信奉致しました、
  殊に森公により、城の守護神として、現在の地に祭祀されてより、歴代の城主・庶民の篤き信仰をうけて来ました。津山の発展のために御降臨下さった千代稲荷神社、城の守護神である千代稲荷神社は、津山市発展の為の生産の神であり、市民の守り神であって、単なる稲荷信仰とは違うのであります。今日、城山の重要性が強く認識され、之が開発は、津山市発展の根元と云われて居りますが、城山の開発、市の発展は、先ず守護神である千代稲荷神社を尊崇するところであります。
御祭神:豊受神宮の分神と伏見稲荷神社の御分霊

南下して元の橋へ、東へ向かい、左折、直ぐ右折東へ町屋カフェと小さい石柱を北へ突き当たり
大隅神社
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鎮座地津山市上之町78
由緒:当社は、和銅年間以前より祀られており、この地の山澤、原野を開拓し國造りの化身と崇められた信仰無類の「豊手」という異人が出雲國日寓宮(今の出雲大社)を勧請し、大寓宮と称したのが鎮座の起源と伝えられている。当社の縁起・古謄文等は、天文年中尼子晴久の乱の折り、更に永禄年中凶徒の災によって紛失し、又宇喜多直家は当国を領したとき刀剣・甲冑・筒丸を奉納したと伝えられている。元は六百メートル東の地に祀られていたが、美作国守森忠政公が鶴山に築城し城下町が賑ってきた元和六年(一六二〇)三月現在地に遷され、以来大橋以東の産土神として崇敬されている。当社は鶴山城鬼門守護として代々国守の崇敬厚く、社領の寄進、社殿の造営・修理が行われた。現在の御本殿は、貞亨三年(一六八六年)に再建されたものである。
(大隅神社神門:大隅神社の門は、もと津山城内にあった門で、明治8年、津山城を取り壊した際に移築し、大隅神社の神門として使用されるようになったものです。従って普通に設計された門とは異なり、用材は太く工法も粗野ですが、津山城の遺構のひとつとして珍しいものです。構造は、門の幅3.93m、側面の幅2.24mで、屋根は切妻造、本瓦葺です道路の高さは乗馬で通行できる程の高さで、城門として使用されていた事がうかがわれます。建築様式としては、薬医門様式と呼ばれるもので、主柱2本(角柱)と控柱(角柱)2本で切妻屋根を支え、屋根の重心は本柱に寄りかかっている様式であります。)
御祭神:大己貴命、小彦名命

R53号を川沿いに東へ進んで行くと前方に橋が、橋を渡り、前方右手に木立が見える。カーブす手前を右折すると左手に鳥居、右手に神社が見える。(最初手前を右折してしまったので、見つからず作陽高校の方まで行ってしまい引き返す)
八出天満宮
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鎮座地津山市八出357
由緒:菅原道真公の父是善が天安元年(八五七年)美作の国司として赴任しておられた。この時この国に病気がはやっているをお聞きになられた菅公は父の病気を心配して遠く京都から見舞に来られたが父の病はすでになおっておられ安心して 帰ろうとされた。ところが里人が別れを惜しんでこの地に駐まってもらうよう念願した。そこで菅公はこの地の観音寺に留まって木工に命じて自分の像を刻んでもらい「汝この像を観ること吾を観るごとし」と、里人に自像を渡して遂に帰京された。里人は菅公の恩徳を慕い祠を建てこの像をお祀りした。菅公がこの地に八日留まって出られたのでこの地を「八夜御出村」と呼んでいたが後略して「八出」と言うようになる。こうして学問の神・菅原道真公を祭神とする八出天満宮ができた。本殿は文禄三年(一五九四)火災のため焼失したが、御神体は神主によって奉戴して逃れ小社に祀っていたのを森忠政によって慶長年間に再建せられ、さらに森永継が寛永十四年(一六三七)に再建修理したのが現今の神殿である。
御祭神:菅原道真公

適当に西へ進んでもいいが、迷うと厄介なので、元へ引き返し、53号、津山駅前と岡山方向へ進み来るときに見た、53号線沿いにある神社を目指す。
佐良神社
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鎮座地:津山市一方636-1
由緒:本社の創立年代は不詳であるが、口碑によれば備前美作の両国造となった。和気氏の祖が、この地に居住し、地名を美作国佐良の荘(旧久米の佐良山)と云えられる。和気氏祖神を当地に勧請したのが佐良神社である。大正2年2月15日に福田村 村社八幡神社、元高尾村 村社高尾神社、元皿村 村社佐良神社、元平福村 村社八幡神社、元中島 村社福井神社、元一方村 村社長岡神社、元北村 村社八坂神社、元井口村 村社八坂神社以上の各部落の神社を佐良神社に合祀する。大正2年10月に現在の地に遷座した。
御祭神:佐波良神、素盞嗚命、天日鷲命、大國主命、譽田別命、大山祇命、奥津彦神、奥津姫命、猿田彦命、火産靈命、清麻呂命、平麿神、和多都美神、天穗日命、經津主命、倉稻魂命、彌都波能賣神、宿奈命、伎波豆命

少し早いが妻を待たせると何かと煩いので元の起点迄戻る。津山はやはり遠いし方々に散在している感じ。再チャレンジする価値はあるが、十分な見当が必要である。

瀬戸東方向続編

今日は先日の続編と言う感じで、我が母校瀬戸高校前を起点にする。
砂川を下り、96号西へ、右手に寺地公会堂を見ながらその先の斜めの道を左折し進み、山側に池の土手が見える広めの処へくるを停め歩いて池の土手を目指し、土手沿いに進んで山の中へ入る。
寺地八幡宮
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鎮座地:岡山市東区瀬戸町寺地1108
由緒:当社は寛永5年(1628)の創建と伝えられる。元禄年間に祠官の西崎勝太輔が奉仕のとき、京都の吉田家から御神体は造り、形容、年代等最も優れており、国宝に準ずるものとの評価を受けた。
御蔡神:仲哀天皇、応神天皇、神功皇后

南へ出て96号、西へ、坂根の標識が出ている信号を右折、線路を越え川を渡り右折、その先のY字路を左折、池の側を通り道なりに進んで行くと右手に鳥居が、鳥居前の広い処へ車停め歩いて、結構長い参詣路である。
春日神社、別称:春日大明神
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鎮座地:岡山市東区瀬戸町坂根102
由緒:当社の創建は和銅5年(712)である。もとは吉岡郷及び磐梨郷の神社であったが、元禄年間に火災により社殿を焼失した為、社格を失った。元禄3年5月再建した。
御蔡神:天兒屋根命

前の道を走り、広い道を東へ、突き当たりを北に走ると線路を越え、96号宗堂の信号に出る。行き過ぎているので少し戻り、広めの場所(消防署)に車を停め県道96号を更に走り、250mで左折、突き当たり道は無いが250mほど先
春日神社
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鎮座地:岡山市東区瀬戸町森末
由緒、御蔡神不明

県道96号を更に走り、250mで左折、(宗堂)、550m先左折、宗堂桜のある池の先
素盞嗚神社
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鎮座地:岡山市東区瀬戸町宗堂1010 
由緒:当社は寛文元年(1661)5月10日再建された。創建年代、由緒は不詳。
御蔡神:素盞嗚尊

宗堂から北上、集落へ入ったら、広めの道を左折、北上して(高速を潜る道を探す、遠回りだが左手山裾を進む)山陽自動車道を超え左手の池2つの先山の池集会所の奥側にある。今日は溜池の整備をしていたが通行に支障は無かった。
平野神社
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鎮座地:岡山市東区瀬戸町塩納1414
由緒:当社の鳥居は嘉永5年6月に建立されたものであり、創建はそれ以前であろう。明治26年5月1日に拝殿を再建し、同9月に本殿屋根の葺き替えを行った。
御蔡神:今木神、久度神、古開神、比賣神

同じ道を引き返し96号へ、東に進んで行き万富駅の次の信号を左折し進み、川沿いに左にカーブル先に鳥居が見える。
阿保田神社
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鎮座地:岡山市東区瀬戸町万富1989
由緒:当社は本国神名帳に「阿保田神社」、山本氏本に「従5位上阿保田明神」と記載してある古社で、備前国式外社128社の一社である。
御蔡神:阿保田神

96号を進んで行き、79号が交差、右折して、79号を南東に進むと吉井川を渡る、突き当たりを左折(395号)して川沿いに進み南に集落が見える辺りに『熊山遺跡登山道』の標識、標識に従い、線路側に降り、右折して線路を潜る。直進し、最後の三叉路を右折して進むと突き当り右手に
正八幡宮
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鎮座地:赤磐市奥吉原479
由緒:創建年代は不詳である。往古は赤岩の鎮座であったものが、現在地に遷座した。神社明細帳によると、社領米石高四斗一升八合である。
御祭神:不明

神社に東横を進み、左折、右折カーブしている処を進み広めの道を右折直進すると山際の道へ、何処までも道なりに進むと20分位で山頂
途中右手に神社(200m程度先の右手に、直ぐ先には何故か扮装したマネキンが三体))
不明神社
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鎮座地:赤磐市奥吉原
由緒、御祭神共に不明

今回のメインの場所、昔から行ってみたいとは思っていたが、とても意欲が湧かなかった。調べると車道が出来ており、20分程度、楽をするのは良くないが歳を考え。それでも行って良かった場所。熊山遺跡は健在であるし、檜をはじめとする木々に囲まれ荘厳さも健在!、しかし離れた場所ではあるが中継基地が、また大滝山へ出る道のほうがよいのか?
熊山神社
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鎮座地:赤磐市奥吉原1526
由緒:創建年代は不詳である。本神社は熊山の山嶺に鎮座し、神位従四位下、式内外で一二八社の一であった。唐僧鑑真和尚が天平勝宝六年(七五四)に聖武天皇の招きにより入朝し、帝釈山霊山寺を開き地蔵菩薩を社内に安置し、国家泰平・牛馬安全の守護神とした。享保年間(一七一六〜三六)に旧藩主池田候から墨印・社領高二十石・山林八町四面を賜ったが、明治維新の際、神仏混淆御引分けとなり、明治六年に熊山神社と改称した。明治三十二年八月二十八日に暴風のため社殿は焼失した。建武中興(一三三四)の初め後醍醐天皇が西遷せられる時に、児島高徳が義旗をあげ、皇師の軍を起したことは有名である。
御祭神:不明

この神社は標識もあり、直ぐに見える位置にある。
猿田彦神社
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鎮座地:赤磐市奥吉原
由緒、御祭神共に不明
この神社は標識からかなりの距離を歩く必要がある。本当に直ぐ近くまで行かないと次の標識が無いが、そこそこの神社なので問題は無い。下之宮もどこかにあるのか!
油瀧神社(上之宮)
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鎮座地:赤磐市奥吉原
由緒、御祭神共に不明

この神社も標識からかなりの距離を歩く必要がある。かなり山を下って行き車の通れる道突き当り、左右歩くが見当たらない、真っ直ぐ進んで山を下るのか?一旦引き返し車でこの位置まで戻り、下に下って行くと、少し先に左方向の標識あり。
鍛冶神社
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鎮座地:赤磐市奥吉原
由緒、御祭神共に不明

元へ引き返し山裾の道を西に進み395号に、左折して南下79号を更に南下、橋の先を進み前方白陵高校方向へ左折後、線路に沿って進み、高校を過ぎた先、左手坂道を登り、線路を越え直進、先左手に(白陵高校がこんな場所にあったとは知らなかった。そして熊山駅近くの吉井川の土手下に車が多く止められている。何か妙な感じ)
大谷八幡宮
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鎮座地:赤磐市勢力678
由緒:創建年代は不詳である。往古は大谷八幡宮と称したが、安元二年(一一七六)に遷座し、大字の勢力・千本を氏子区域とした。明治二十四年四月に山陽鉄道布設により現地に奉遷し、現在に至っている。
御祭神:不明

引き返し、南に進み79号と合流する、南下し集落に入る手前を左折土手下を進み、土手下の広めの処へ車を停め、内側を見ると鳥居が(弓削コミュニティハウスの手前)
八幡宮
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鎮座地:岡山市東区瀬戸町弓削915
由緒:創建年代は不詳である。熊山山脈の宮ヶ鼻山上の鎮座であったが、正治元年(一一九九)に現在地に遷宮した。九州の宇佐八幡宮の御分霊を勧請したとの棟札がある。明治初年から八幡宮と称し尊崇した。弓削及び対岸の二日市の産土神である。
御祭神:不明

少し北へ引き返し、吉井川を渡り(179号)、万富駅から96号へ、左折してキリンビール前を通り南下、右手に駐車場と鳥居が見える。鳥居を越えて三谷公園へ
金剛童子
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鎮座地:岡山市東区瀬戸町南方1609
由緒:吉井川を上がり下りする高瀬舟にとって五本松は舟の難所だったので舟船頭は五本松の岩の上に舟神様を祀って安全を祈った天正年間のことである。その後山嶺に祠を建て祀った。その時福岡妙興寺の僧が金剛童子と名付けたと言われる。現在の社殿は明治の再築で現在の場所へ建ったのは延享二年(一七四六年)である。
ひえ神様として古来から信仰され遠く阪神方面の信者が多く参詣していた。
四月四日は千日詣、七月十七日は縁日で昼夜賑う。

252号瀬戸町浄水場の西方500m
直線では進めず、広めの道を西に入る
諏訪神社
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鎮座地:岡山市東区瀬戸町大内2005
由緒:当社の創建年代は不詳であるが、古老の伝によると古来から安産の守り神として崇敬が篤く、遠近を問わず参拝者がある。
御蔡神:武御名方神

252号を南下、岡山リサイクルセンター南150m、東側に入る
荒神社
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鎮座地:岡山市東区瀬戸町大内
由緒、御祭神共に不明

252号新幹線手前、川沿いを右折、直進し池の近辺の広い処へ車を停め、北側を歩いて探す。田舎にしては珍しく集落の中にあり探しにくい。
素戔鳴神社
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鎮座地:岡山市東区瀬戸町大内
由緒、御蔡神共に不明

川沿いの道を北西に400m程、池を目指して進み土手に出ると池の隣に神社が見える、参詣して分ったが東側に参詣路がある。
柴狹神社
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鎮座地:岡山市東区瀬戸町大内2294
由緒:当社の創建年代は不詳であるが、本国総社神名帳に「柴狹神社」、山本氏本に「正6位下柴狹明神」とある古社で、備前国式外社128社の一社である。
御蔡神:柴狹神

近くにいた人に先ほどの神社の前を山の方に進むと神社があると教えられ行ってみるが道は無く強引に急勾配をしばらく登ってみるが、見つからず、疲れたので中止、後で調べると『天津神社』らしく、帰って地図を見ると東側に道らしきものが見える。今後の課題にして、帰宅。

岡山東-瀬戸南東方面

今日は昼から瀬戸方面の神社を参拝する。当然旧2号線を通るので途中一ヶ所寄り道をする。城東台東の北東奥で浄水タンクと下側、上道駅前の信号を右折して坂道を登り、前方の広い十字路を左折し、突き当りまで北側の広い道を進み、右折し、突き当たり辺迄進み、タンク方向を目指し歩く。坂道は通行止め、かなり広い団地なので注意して探す必要あり、最初間違えて一旦引き返す。
日月神社
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鎮座地:岡山市東区沼
由緒、御祭神共に不明
新幹線を挟んだ北側にある神社と同じような創り、同様に新しい神社で、何か今風な感じである。

旧2号線に戻り、東へ、沼の信号で左折突き当たりを右折して220号を瀬戸方向へ進み、37号の上を更に進み突き当たり広い道を右折、線路を潜り、直ぐに左折、直進し広い道を右折2つ目の交差点を左折、直進した先が神社、実際はもう一本南の道を曲がり川に突き当たった側に車を停め歩いて参拝する。(道路が工事中で通行止め、歩いて参拝したが、広い道で十分通行可能)
築領八幡宮、通称名:下八幡様
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鎮座地:岡山市東区瀬戸町下741
由緒:当社の創建は文久2年(1862)である。社格の古事はないが、当地は神宮皇后の三韓討伐の順路にあたり、その古跡が残っている。
三武神の仲哀天皇、応神天皇、神功皇后を勧請して、産土神築領八幡宮と称し、その霊験はあらたかで地方に知られている。
御蔡神:仲哀天皇、応神天皇、神功皇后
思っていたより大きな神社であった。

この神社を探すより先に目についた赤い鳥居の神社、近くの人に聞くと裏の山を登って行けば祠が祭ってあるとのこと
天神宮
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鎮座地:岡山市東区瀬戸町下
由緒、御祭神共に不明
この神社に参拝するためと言うよりは山登り、結構疲れた

先ほど曲がった元の道へ戻り、南へ進み、信号を左折し、進んで行くと前方右手に黄色の家々と『訪問看護ステーションアルテピア』の変わった建物が見える。
手前の道を左折し、突き当たりY字路を左折、直進し、突き当たり辺りの広い道へ車を停め、右手奥に見えていた池の土手の先の燈籠を目指す。(少し進むと右手によく見えるので間違えない)
日吉神社、通称名:山王山
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鎮座地:岡山市東区瀬戸町江尻491
由緒:当社の由緒は不詳であるが、古来から鎮座地の一帯を山王山と称していたので、社名も旧号を山王宮と称していた。
御蔡神:大山咋命

車迄引き返し、この道を左手に進むと右手に白い建物『江尻コミュニティハウス』が見えるので右折、建物の前に車を停め突き当たりの陣zyを目指す。
八幡宮、別称:正八幡宮
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鎮座地:岡山市東区瀬戸町江尻168
由緒:当社の創建年代は不詳である。特殊神事として、毎年1月13日(明治42年までは陰暦12月13日)に氏子の家で神社の神田から収穫した米で、濁酒を醸造し、盛大な稲尾行事があったが、酒造税発布により濁酒を廃して清酒で神事を執行している。
御蔡神:応神天皇、仲哀天皇、神功皇后

元へ戻り、221号を東へ、『願興寺1.5km』の標識、指示通りに左折して北方向へ進んで行くと右手に鳥居が見えてくる。その少し先にお寺さん
雨垂布勢神社、通称名:雨垂様
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鎮座地:岡山市東区瀬戸町肩脊2203
由緒:当社の創建年月は不詳である。本国総社神名帳に雨垂布勢神社とある。
山本氏本に従2位雨垂布勢明神として記載してある。備前国式外古社128社の1社である。
古伝によると、古くは郷社領国幣105社の1つである。
備陽国誌には、「孝謙天皇の御宇、奥州黒川郡の天足大明神を勧請す。此社の氏子は故あって伯州大山への参詣しない由伝う」とある。
御蔡神:大己貴命

元へ引き返し、221号を更に東へ進んで行くと右側にユノス瀬戸工場が少し進むと北側の道沿い鳥居が見える
御﨑宮、別称:神神社
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鎮座地:岡山市東区瀬戸町肩脊2082
由緒:当社の創建年代は不詳であるが、本国総社神名帳に「神神社」、山本氏本に「正4位下神明神」とある古社で、備前国式外社128社の一社である。
御蔡神:大己貴命幸魂

221号を南下、新幹線手前150mの東側山手(路肩に車を停め歩いて)ちょっと頭にきたことに、神社の位置を確認した人の知り合いか、失礼にも「何をしに行くのか」問われる、他にも失礼なことを言われる。初めての経験で、最初唖然、後から腹が立ってきたが、参拝をすまし次へ進む
荒神社
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鎮座地:岡山市東区瀬戸町肩脊
由緒、御祭神共に不明

221号を南下、元の吉井川病院方向へ左折して向かうと、先に鳥居が、R2号線の土手の上からよく見える。
石津神社
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鎮座地:岡山市東区吉井716
由緒:本神社は備前国総社神名帳に石津神社、又山本氏本に正四位上石津明神と記載され、備前国式内外古社128社の一である。宝暦年中(1751年〜1764年)神社書上帳に石津大明神所祭則石津連祖野見宿禰とあるのによって、御祭神は詳に知られる。宝物として、黒田左衛門筆の絵馬一面がある。
御祭神:野見宿禰、応神天皇、菅原道真
オープンな感じの祭殿、珍しいかも

遅くなってきたので、直ぐ近く」で、姉の嫁ぎ先近くの神社へ、旧山陽道を西に進んで行くと鳥居が、右折し突き当たりの神社を、前に少し駐車スペースがある。
福岡神社
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鎮座地:岡山市東区浅川519・西祖218
由緒:長和5年(1016年)8月27日人皇67代三条院の御宇に創建せらる。霊験殊の外あらたかにして正一位春日大明神と称えられ平重盛の尊信篤かったと記され、又、武神を祀る宮なる故、観応元年(1350年)に足利尊氏の軍が数か月在陣、祈願したと伝える。その後もしばしば武家の屯所として使用されたという。やがて池田侯岡山藩主となりたる。後は代々例大祭には奉幣の礼を以つて尊信を続けたことは絵馬額として、又、奉幣目録として現在も保管されている。明治43年矢井八幡宮を合祀し、福岡神杜と改称して今目に至る。
御蔡神:武甕槌命、経津主命、天児屋根命、姫大神、応神天皇

広めの道を通り北西に進み、新幹線を潜った先の、集落の広めの場所へ車を停め、東側の山方向を、公園と集会所、そして階段があるので進んで行くと神社が
龍王宮神社(少童神社)
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鎮座地:岡山市東区浦間1636
由緒:少童神社は古名を竜王宮といい、大字浦間に鎮座する。祭神は綿津見命である。境内凡そ629坪、由緒詳かでないが享保6年(1721年)にできた「備陽記」に竜王宮として記録されてい
る。それによると、「竜王浦間村ノ内ニアリ、但浅川春日大明神ノ末社」とある。現在保管されている一番古い棟札には、文化7年(1810年)庚午之歳と記されている。あるいは此の年に現在の御本殿が新築され、初めて神社建造物としての規模が備ったと考えられる。明治初年神仏分離令が出され、村社少童神社として明記されることとなった。

今日も意外と数が稼げなかった。最近タブレットを使用しているせいか、感が悪くなっている。
通常のコースで帰宅

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