今日は土曜日であるが天気がよく、暖かそうなので出かける。県道83号線から39号線を通り鶴見辺りまで、帰りはブルーラインを通り一気に帰宅予定、しかし帰りに此のコースを選んだのは『』で女房の土産に『パン菓子』を買うため。行きはのんびりと旧2号線から竹原(83号)、邑上橋から東へ進み39号を南の近場と、引き返し北東方向へ進む。
邑上橋の手前右にカーブする手前を直進下辺りに参詣口が、登って行くと83号橋の手前側からのルートと出会う、また、神社裏に中継基地があり、西側北側から車で参詣出来るかもしれないが確かめていない。今回の参詣道も車は可能だが急な坂道と、Uターンが出来ず石段で行き止まり。
津宮八幡宮
由緒:当社は天応元年(781)の創建と伝えられている。
御祭神:足仲彦命、応神天皇、神功皇后
結構通っている割になぜか参拝してなかった。登るのが面倒なのと何時でも可能と思っていたのが大きいか
83号線を東へ、今回予定に入れ忘れの途中の神社をついでに参詣を済ます。
83号を東へ進み、長船中を過ぎ、橋を渡った直ぐ先左手に、適当な位置へ車を停め歩いて参詣
稲荷神社
由緒:備陽国誌に稲荷宮牛文村とある。宝暦11年(1761年)神社書上帳には牛文村の内稲荷神社所祭三座とある。明治5年村社に列格された。
御祭神:稲倉魂命
前方右手の橋を渡って、三叉路を右折、西側から山を廻り込むと、南側左手に鳥居が
八幡宮
由緒:備陽国誌に八幡宮牛文村とある。宝暦11年(1761年)神社書上帳には牛文村八幡宮所祭三座とある。明治5年村社に列格された。
御祭神:応神天皇、仲哀天皇、神功皇后
ここまで来たら直ぐ近くの長船中側の神社が西へ見えているので目指す。神社前の道を西へ、よく分からないので手前の少し広めの場所へ車を停め歩いて参拝(神社の下へ駐車場有-車でも十分可能-近いのでどちらでも)
諏訪神社
由緒:「備陽国誌」に(諏訪大明神牛文村)とある。宝暦11年(1761年)神社書上帳には、相殿四座の内三座は同殿、東照権現の御社は一尾越別殿とある。明治5年村社に列格された。
御祭神:建御名方神
83号線を東へ、点滅の信号を左折し川沿いに北へ進みY字路を左折し北上し、突き当りを左折、更に突き当りを右折して進んだ左手(舗装とひ舗装の道、車で通行も可能だがちょっとシンドイか?、また注意して進まないと見落として行き過ぎる。全くの神社跡という感じ)
大岩大明神社
由緒、御祭神共に不明
83号線を東へ、森商店先を左折直進し、突き当りを右折し、最初のT字路を左折し進み、先の少し広い処を右折、左にカーブして進み、三叉路を右折して神社の東へ廻り込む。
伊良髙八幡宮
由緒:創立年代は不詳であるが廣高山美和神社より勧請したので、廣高八幡宮の高の一字を取り飯高八幡宮と称し、寛文年中(1661〜1673年)には伊高、明治維新後は伊良高八幡宮と称せられた。大正5年神饌幣帛料供進指定村社、国主池田家より累代社領五石七升五合寄進された。
御祭神:応神天皇、神功皇后、仲哀天皇
歩くと距離はあるが勾配が大したことが無いので、歩いて参拝した方がいいかも
元へ引き返し、飯井の信号を南へ(39号)、右手に法興院の表示を左折して、細い坂道を進むと突き当りに(ここもGoogleマップに載っているから-神仏混合)
金刀比羅本教岡山教会(法興院)
由緒。御祭神共に不明
39号を南へ進み、先の三叉路を左折して、『美和会館』の鉄塔を目指す。南側の山にあるはず(美和会館に車を停める-今日は地区のお祭り?のため準備をしているとのこと名称も祇園様と呼ばれている-道から見える表示も同様)
沼名前神社(祇園様)
由緒。御祭神共に不明
39号に出て南へ1.5km程度進むと前方右手に参道の案内表示、道なりに進んで行くと神社横手に、(途中に鳥居あり-神社南側の展望もよい)
美和神社
由緒:当社は延喜式神名帳(927)に記載されている古社で祭神は大物主神である。当社は大神(おおみわ)神社(奈良県桜井市)から勧請したと言われてる。勧請年月は明らかではないが、この地に移住してきた須恵器の陶工集団と深い関係があると言われているので7世紀前後のことと思われる。ご鎮座の場所は標高166メートルの広高山の山頂である。広高山は三和の峰とも呼ばれていた。当社は永禄年中(1558〜1570)に金川の城主松田左近が日蓮宗を信奉し旧社を弾圧したとき、難を避けるため「広高八幡宮」と改称したと言われている。明治3年にもとの美和神社に復称し、今日に至っている。社宝に文字瓦(長船町重要文化財)がある。この瓦には次の文字が彫り込まれている。「天正13年閏7月13日西蔵坊行海 八幡舞殿建立仕満つり候 すへ畑寺 空賢 敬白」主文は「八幡舞殿建立つかまつり候」である。すへ畑寺とは「畑山大聖寺」のことで美和神社の別当である。この刻字により舞殿が建てられ舞が奉納されていたことがわかる。慶安元年(1648)の記録によると神職2人神子(みこ)禰宜(ねぎ)24人が奉仕しており、更に神輿3基、流鏑馬に参加する馬が3疋、御神幸に参加する馬が9疋となっている。当時の祭典がたいへん盛大であったことが窺える。10月8日・9日の大祭には東須恵と西須恵の祷主と神職および従者数名が、邑久町尻海の海岸で潮ごりをとり、身を清めて尻海の広高神社へ酒・米など供えてお祭りをする行事が大昔から現在まで続いている。広高山には神功皇后の愛馬「白鷹」の伝説がある。神功皇后が乗られた軍船が牛窓の蕪崎で休憩されたとき、皇后の愛馬「白鷹」があやまって海に落ち、北に向かって泳ぎ尻海に上陸した。「白鷹」はさらに山中を走り須恵の山へ駆け上がり息が絶えて死んだ。須恵の住民は「白鷹」をねんごろに葬り、山の名を「白鷹山」と呼ぶようになり、後に「広高山」になったと言われている。 当社の東にある榊谷という深い谷に「美和の井」という井戸がある。古書に「いとよき清水なり神供の類みなこの井の水を調進す」と記載されている。
御祭神:大物主神
39号を『飯井』信号まで引き返し、39号線を北東へ進んで行くと川と出会った先にバス停を左折して進み、突き当りを左折、次の三叉路を右折して進むと正面に階段(道の広さが分からないので適当な位置に車を停め-適当な目印が無く分かり難い-南側の三和油脂工業の工場を目印に)
殿上西神社
由緒:当社は本国総社神名帳に「殿上西神社」また、山本氏本に「従五位殿上西明神」と記載されている。備前国128社の1社である。佐山の北に元山という高山があり、その山の尾の南方(3尾ある中の中央の尾を殿上山という)の右の尾を西宮山という。この中に鎮座する神社が殿上西神社であり、東の宮山に鎮座する神社が殿上東神社であり、その中央の尾に鎮座する神社が春日神社である。明治42年殿上東神社と春日神社を合祀する。国主池田家から明治4年まで社領1石の奉納があった。
御祭神:殿上西神、殿上東神、武甕槌命、姫大神、齋主神、天兒屋根命
39号線を北東へ進んで行きJA(ガソリンスタンド)手前を左折し進んで行くと左手に(ここも車は早めに停めて探す-ここも神社跡といった感じ)
殿上東神社
鎮座地:備前市佐山
由緒,御祭神共に不明
39号線を北東へ進んで行き三叉路を左へ先を左折し、川沿いに進みT字路を右、三叉路を左、三叉路を左進んで行くと左手に(想像よりはるかに小さい神社-歩かないと探し当てるのは無理かもしれない)
大宗神社
由緒:白髭一統の祖神として祀る神で、戦国時代に龍王山城にいた白髭入道(大宗判官)を祭ってある。白髭入道の事蹟については的確な遺物がないので一切判らないが、浦上宗景と何らかの関係のある者らしい。
文明十六年一月二十六日白髭入道薩摩守は落城し山門部落に至り、道の側の小丘の辻堂に入り、翌未明五十歳を一期としてこの地にて自害。家臣一同は分散帰農と決め、この地に宇を建て、霊を祀り、大宗神社と称した。
御祭神:児島太郎左衛門範宗、龍王山城主 白髭入道薩摩守
39号線を北東へ進んで行くと海の手前(182号と分岐)川と出会った手前を右折、進むと突き当りの広場に神社
恵比寿宮
由緒、御祭神共に不明
前記広場に車を停め人家の先、北側山奥をを目指す(今回もタブレットナビで)
八幡宮
由緒、御祭神共に不明
(西側から参拝をすましたのでトライせず:結構急な坂道、後で-39号線が海に出会う処で右折し、182号を進み右にカーブする処の右側の脇道を登り道なりに進んで行くと神社の東側へ)
39号線へ戻り北へ、39号線を北東へ進んで行き,右側大鵬薬品先を左折し進み、川沿いの広めの場所に車を停め歩いて探すことに。丁度近くのご婦人に出会って方向を念のため確認すると案内してくれる。初めての経験で感謝。(最初の道を右折し、前方山を探す)
妙見神社
由緒、御祭神共に不明
実際の案内がないと少し手間取る可能性あり、山道を進むのと、神社が小さく整理されている
ここも実際に案内して頂く、やはり案内があると気分的にも非常に楽、しかもお茶のボトルを頂く、ずっとコンビニが無い処を通っていたの余計に感謝(右折した道まで戻り西へ進み、右折、左折、右折して進むと突き当り右手に広場、車停め右北の山を探す-車のコース?今回の感じでは大した距離ではないし高低差もないので歩いた方がいいと思う)
山神社
由緒、御祭神共に不明
山際の道を北東に進んで行くと左手に鳥居があると教えられ進んで行く
久々井八幡宮
由緒、御祭神共に不明
前の道を進んで行くと39号へ、出た辺りに車を停め、1本西の道を北へ進むと突き当り左に、ここも小さく分かり難い
天神社
由緒、御祭神共に不明
今日はここまで、ブルーライン『鶴海』インター出て帰宅、もちろん土産は忘れずに