岡山県内神社巡り(メイン)

片っぱしらからの神社巡り

2015年01月

神社廻り-39号線-瀬戸内市・備前市

今日は土曜日であるが天気がよく、暖かそうなので出かける。県道83号線から39号線を通り鶴見辺りまで、帰りはブルーラインを通り一気に帰宅予定、しかし帰りに此のコースを選んだのは『』で女房の土産に『パン菓子』を買うため。行きはのんびりと旧2号線から竹原(83号)、邑上橋から東へ進み39号を南の近場と、引き返し北東方向へ進む。

邑上橋の手前右にカーブする手前を直進下辺りに参詣口が、登って行くと83号橋の手前側からのルートと出会う、また、神社裏に中継基地があり、西側北側から車で参詣出来るかもしれないが確かめていない。今回の参詣道も車は可能だが急な坂道と、Uターンが出来ず石段で行き止まり。
津宮八幡宮
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鎮座地:岡山市東区内ケ原1
由緒:当社は天応元年(781)の創建と伝えられている。
御祭神:足仲彦命、応神天皇、神功皇后
結構通っている割になぜか参拝してなかった。登るのが面倒なのと何時でも可能と思っていたのが大きいか

83号線を東へ、今回予定に入れ忘れの途中の神社をついでに参詣を済ます。
83号を東へ進み、長船中を過ぎ、橋を渡った直ぐ先左手に、適当な位置へ車を停め歩いて参詣
稲荷神社
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鎮座地:瀬戸内市長船町牛文1549
由緒:備陽国誌に稲荷宮牛文村とある。宝暦11年(1761年)神社書上帳には牛文村の内稲荷神社所祭三座とある。明治5年村社に列格された。
御祭神:稲倉魂命

前方右手の橋を渡って、三叉路を右折、西側から山を廻り込むと、南側左手に鳥居が
八幡宮
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鎮座地:瀬戸内市長船町牛文466
由緒:備陽国誌に八幡宮牛文村とある。宝暦11年(1761年)神社書上帳には牛文村八幡宮所祭三座とある。明治5年村社に列格された。
御祭神:応神天皇、仲哀天皇、神功皇后

ここまで来たら直ぐ近くの長船中側の神社が西へ見えているので目指す。神社前の道を西へ、よく分からないので手前の少し広めの場所へ車を停め歩いて参拝(神社の下へ駐車場有-車でも十分可能-近いのでどちらでも)
諏訪神社
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鎮座地:瀬戸内市長船町牛文1023
由緒:「備陽国誌」に(諏訪大明神牛文村)とある。宝暦11年(1761年)神社書上帳には、相殿四座の内三座は同殿、東照権現の御社は一尾越別殿とある。明治5年村社に列格された。
御祭神:建御名方神

83号線を東へ、点滅の信号を左折し川沿いに北へ進みY字路を左折し北上し、突き当りを左折、更に突き当りを右折して進んだ左手(舗装とひ舗装の道、車で通行も可能だがちょっとシンドイか?、また注意して進まないと見落として行き過ぎる。全くの神社跡という感じ)
大岩大明神社
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鎮座地:瀬戸内市長船町飯井
由緒、御祭神共に不明

83号線を東へ、森商店先を左折直進し、突き当りを右折し、最初のT字路を左折し進み、先の少し広い処を右折、左にカーブして進み、三叉路を右折して神社の東へ廻り込む。
伊良髙八幡宮
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鎮座地:瀬戸内市長船町飯井2703
由緒:創立年代は不詳であるが廣高山美和神社より勧請したので、廣高八幡宮の高の一字を取り飯高八幡宮と称し、寛文年中(1661〜1673年)には伊高、明治維新後は伊良高八幡宮と称せられた。大正5年神饌幣帛料供進指定村社、国主池田家より累代社領五石七升五合寄進された。
御祭神:応神天皇、神功皇后 、仲哀天皇
歩くと距離はあるが勾配が大したことが無いので、歩いて参拝した方がいいかも

元へ引き返し、飯井の信号を南へ(39号)、右手に法興院の表示を左折して、細い坂道を進むと突き当りに(ここもGoogleマップに載っているから-神仏混合)
金刀比羅本教岡山教会(法興院)
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鎮座地:瀬戸内市長船町飯井672−1
由緒。御祭神共に不明

39号を南へ進み、先の三叉路を左折して、『美和会館』の鉄塔を目指す。南側の山にあるはず(美和会館に車を停める-今日は地区のお祭り?のため準備をしているとのこと名称も祇園様と呼ばれている-道から見える表示も同様)
沼名前神社(祇園様)
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鎮座地:瀬戸内市長船町東須恵
由緒。御祭神共に不明

39号に出て南へ1.5km程度進むと前方右手に参道の案内表示、道なりに進んで行くと神社横手に、(途中に鳥居あり-神社南側の展望もよい)
美和神社
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鎮座地:瀬戸内市長船町東須恵1064
由緒:当社は延喜式神名帳(927)に記載されている古社で祭神は大物主神である。当社は大神(おおみわ)神社(奈良県桜井市)から勧請したと言われてる。勧請年月は明らかではないが、この地に移住してきた須恵器の陶工集団と深い関係があると言われているので7世紀前後のことと思われる。ご鎮座の場所は標高166メートルの広高山の山頂である。広高山は三和の峰とも呼ばれていた。当社は永禄年中(1558〜1570)に金川の城主松田左近が日蓮宗を信奉し旧社を弾圧したとき、難を避けるため「広高八幡宮」と改称したと言われている。明治3年にもとの美和神社に復称し、今日に至っている。社宝に文字瓦(長船町重要文化財)がある。この瓦には次の文字が彫り込まれている。「天正13年閏7月13日西蔵坊行海 八幡舞殿建立仕満つり候 すへ畑寺 空賢 敬白」主文は「八幡舞殿建立つかまつり候」である。すへ畑寺とは「畑山大聖寺」のことで美和神社の別当である。この刻字により舞殿が建てられ舞が奉納されていたことがわかる。慶安元年(1648)の記録によると神職2人神子(みこ)禰宜(ねぎ)24人が奉仕しており、更に神輿3基、流鏑馬に参加する馬が3疋、御神幸に参加する馬が9疋となっている。当時の祭典がたいへん盛大であったことが窺える。10月8日・9日の大祭には東須恵と西須恵の祷主と神職および従者数名が、邑久町尻海の海岸で潮ごりをとり、身を清めて尻海の広高神社へ酒・米など供えてお祭りをする行事が大昔から現在まで続いている。広高山には神功皇后の愛馬「白鷹」の伝説がある。神功皇后が乗られた軍船が牛窓の蕪崎で休憩されたとき、皇后の愛馬「白鷹」があやまって海に落ち、北に向かって泳ぎ尻海に上陸した。「白鷹」はさらに山中を走り須恵の山へ駆け上がり息が絶えて死んだ。須恵の住民は「白鷹」をねんごろに葬り、山の名を「白鷹山」と呼ぶようになり、後に「広高山」になったと言われている。 当社の東にある榊谷という深い谷に「美和の井」という井戸がある。古書に「いとよき清水なり神供の類みなこの井の水を調進す」と記載されている。
御祭神:大物主神

39号を『飯井』信号まで引き返し、39号線を北東へ進んで行くと川と出会った先にバス停を左折して進み、突き当りを左折、次の三叉路を右折して進むと正面に階段(道の広さが分からないので適当な位置に車を停め-適当な目印が無く分かり難い-南側の三和油脂工業の工場を目印に)
殿上西神社
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鎮座地:備前市佐山219
由緒:当社は本国総社神名帳に「殿上西神社」また、山本氏本に「従五位殿上西明神」と記載されている。備前国128社の1社である。佐山の北に元山という高山があり、その山の尾の南方(3尾ある中の中央の尾を殿上山という)の右の尾を西宮山という。この中に鎮座する神社が殿上西神社であり、東の宮山に鎮座する神社が殿上東神社であり、その中央の尾に鎮座する神社が春日神社である。明治42年殿上東神社と春日神社を合祀する。国主池田家から明治4年まで社領1石の奉納があった。
御祭神:殿上西神、殿上東神、武甕槌命、姫大神、齋主神、天兒屋根命

39号線を北東へ進んで行きJA(ガソリンスタンド)手前を左折し進んで行くと左手に(ここも車は早めに停めて探す-ここも神社跡といった感じ)
殿上東神社
鎮座地:備前市佐山
由緒,御祭神共に不明

39号線を北東へ進んで行き三叉路を左へ先を左折し、川沿いに進みT字路を右、三叉路を左、三叉路を左進んで行くと左手に(想像よりはるかに小さい神社-歩かないと探し当てるのは無理かもしれない)
大宗神社
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鎮座地:備前市鶴海
由緒:白髭一統の祖神として祀る神で、戦国時代に龍王山城にいた白髭入道(大宗判官)を祭ってある。白髭入道の事蹟については的確な遺物がないので一切判らないが、浦上宗景と何らかの関係のある者らしい。
文明十六年一月二十六日白髭入道薩摩守は落城し山門部落に至り、道の側の小丘の辻堂に入り、翌未明五十歳を一期としてこの地にて自害。家臣一同は分散帰農と決め、この地に宇を建て、霊を祀り、大宗神社と称した。
御祭神:児島太郎左衛門範宗、龍王山城主 白髭入道薩摩守

39号線を北東へ進んで行くと海の手前(182号と分岐)川と出会った手前を右折、進むと突き当りの広場に神社
恵比寿宮
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鎮座地:備前市鶴海
由緒、御祭神共に不明

前記広場に車を停め人家の先、北側山奥をを目指す(今回もタブレットナビで)
八幡宮
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鎮座地:備前市鶴海3712
由緒、御祭神共に不明
(西側から参拝をすましたのでトライせず:結構急な坂道、後で-39号線が海に出会う処で右折し、182号を進み右にカーブする処の右側の脇道を登り道なりに進んで行くと神社の東側へ)

39号線へ戻り北へ、39号線を北東へ進んで行き,右側大鵬薬品先を左折し進み、川沿いの広めの場所に車を停め歩いて探すことに。丁度近くのご婦人に出会って方向を念のため確認すると案内してくれる。初めての経験で感謝。(最初の道を右折し、前方山を探す)
妙見神社
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鎮座地:備前市久々井
由緒、御祭神共に不明
実際の案内がないと少し手間取る可能性あり、山道を進むのと、神社が小さく整理されている

ここも実際に案内して頂く、やはり案内があると気分的にも非常に楽、しかもお茶のボトルを頂く、ずっとコンビニが無い処を通っていたの余計に感謝(右折した道まで戻り西へ進み、右折、左折、右折して進むと突き当り右手に広場、車停め右北の山を探す-車のコース?今回の感じでは大した距離ではないし高低差もないので歩いた方がいいと思う)
山神社
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鎮座地:備前市久々井
由緒、御祭神共に不明

山際の道を北東に進んで行くと左手に鳥居があると教えられ進んで行く
久々井八幡宮
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鎮座地:備前市久々井
由緒、御祭神共に不明

前の道を進んで行くと39号へ、出た辺りに車を停め、1本西の道を北へ進むと突き当り左に、ここも小さく分かり難い
天神社
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鎮座地:備前市久々井
由緒、御祭神共に不明

今日はここまで、ブルーライン『鶴海』インター出て帰宅、もちろん土産は忘れずに

神社廻り-邑久方面

前回吉井川の東岸の南方を廻ったので、本日は邑久から西大寺の南方向を廻る。2号線バイパスからブルーラインで瀬戸内出口を降り、231号を南方向へ、226号へ出会うと左折して南へ橋を渡り直進して突き当りを左折して道なりに進むと前方右手に参詣道の表示、広めの路肩へ駐車し、歩いて、参詣する。本日最初のせいかも知れないが意外と登りやすい勾配、山頂を南へ行き笠松神社、参詣をすまし、北側の砥石城址を。
笠松神社(笠松明現宮、北に砥石城址)
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鎮座地:瀬戸内市邑久町豊原2941
由緒:本神社の創建年月日・由緒等不詳。応永の頃(1400年頃)、笠松明見神と称えたが、後、笠松明見宮と称えた。明治元年には笠松神社と改称した。池田章政から幣帛の供進をうけた。明治9年10月19日御祭神を笠松神と改めた。
御祭神:笠松神
日吉神社
由緒:本神社の創建年月日・由緒等不詳。もと、大ケ島村大雄山大賀島寺の境内の御鎮座であったが、明治2年、火災のため社殿全部が焼失したので、笠松神社に相殿として奉斎した。
御祭神:大山咋命

元へ引き返し、226号へ出会うと右折して進み、前方橋の手前を右折、左折して進み前方右側の小さな橋を右折して進むと前方左手に
日佐神社
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鎮座地:瀬戸内市邑久町豊原2633
由緒:創建年月日・由緒等は不詳。貞享の頃(1685年頃)天神社と改称し、一般に日佐天神と称した。宝暦13年(1763年)天満宮と改称し、明治3年2月祈年祭、11月新嘗祭の国祭が行われ、国主池田章政が幣帛を供進した。明治9年10月19日、日佐神社と復号し、祭神を日佐神と改めた。
御祭神:曰佐神

小さな橋迄引き返し、東に進むと左手山の中腹に鳥居、『豊原つどいの館』に車を停めて歩いて参詣
牛神社
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鎮座地:瀬戸内市邑久町豊原1605
由緒:明和4、5年頃(1767年)、村内に牛疫が流行して数多の牛が死亡したので、村人が憂い、協議の上現在地の亀山に社殿を建て、名主よりの届け出により祇園牛頭天王と称え、御神社帳に書上げ崇敬怠らず、明治初年牛神社と改称した。
御祭神:保食神、素盞嗚命

226号を東に進んで行くと工事中で通行止め、北へ進み山沿いの道を東方向へ進み前方の広めの道を右折して道なりに進んで行くと226号に、進んで行くと直ぐ左手に坂道と神社の案内、道なりに進んで行く
下山田八幡宮
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鎮座地:瀬戸内市邑久町下山田2056
由緒:豊前国から天治元年(1124年)宇佐八幡を勧請し社殿を創建した。古棟札に 神主大脇神左衛門 奉上棟若宮造立第四度大願主 蔵林坊 西門坊 其時領主河本左衛門進秀勝八幡鎮座天治元年(1124年)時天正八庚辰年(1580年)九月十八日宗一言一 とあり、往古、習合の時代には彌陀八幡宮とも奉称されていた。
御祭神:応神天皇、仲哀天皇、神功皇后

上記神社の境内神社で北奥に
天津神社
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鎮座地:瀬戸内市邑久町下山田2056
由緒、御祭神不明

226号を東へ進み突き当りを右折して229号を南へ、T字路を東に(226号)に進んで行くと前方右手に鳥居が、左側の坂道を登って行くと神社の横手に
上山田八幡宮
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鎮座地:瀬戸内市邑久町上山田
由緒、御祭神共に不明
古布乃木天神社、若宮天神社の表示があるがよく分からない。境内で参拝されている人にあったがやはりよく分かって無く、奥に『つんぼの神様』と呼んでいる祠があると教えられる。

少し元へ引き返すと230号へ、左折して南へ、前方カーブ先附近に車停め、歩いて右折し進み、集落の後ろ側の山中、池の右側近くを探す。また神社から見て車を停めた反対側に建物が見えるが、実際行ってみると太子堂か?
出井神社
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鎮座地:瀬戸内市邑久町上山田
由緒、御祭神共に不明

229号へ引き返し南へ進むと28号へ出ると右折して西へ進み、ゴミステーションの先を左折、突き当りを右へ、次の三叉路近くに車を停め、歩いて前方南方向へ進むと右手に階段、参詣後車道方向から車へ戻る。
春日神社
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鎮座地:岡山市東区上阿知1
由緒:本神社は古来本村の内、桜田という地に鎮座されていたのを現在の社地に奉遷した。祭神の天児屋根命は、太古朱桜(ははか)をお用いになったことが記紀に見えている。旧社地の桜田という名は、これに縁故のある名である。また、下阿知村の内に野串山がある。野串は「ぬぐし」と読み、玉串山意で、祭神に関係が深い。
御祭神:天兒屋根命
ここでは車を停めた辺りから鳥居が見え、近くにいた人に聞くと歩いて東側から参詣する道と、西側から車で参詣する二通りを教えられる。(北西方向28号沿いに見られる平屋の郵便局前の道が車道)
またこの人に前記荒神社の大体の方向と位置を教えてもらう。

28号へでて、先ほどの教えように28号を東方向へ戻り上阿知の外れ辺りに(北側に防火用水と坂道)車停め、近くにいたお婆さんに聞くと右手坂道の登った処にあると言われる。山の上の神社は解からないとのこと。参詣に便利なように麓に分社しているのか?仕方ないので先ほどの人の言葉とナビを頼りに山方向へ進む。車では無理だが、祠の前の道を北へ、三叉路を基本的に直進して山道を登って行く、結構な距離がある。
荒神社
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鎮座地:岡山市東区上阿知2349
由緒:創建年月日由緒不詳、往昔上阿知中山にあったが、現地に移された。本殿及び拝殿は、明治34年5月大改修を行った。
御祭神:素盞命

28号を西へ進み、宝伝(234号)方向の手前の反対側の斜めの道に入り少し広めの道を左折して前方適当な位置に車停め、歩いて北側を目指す
木之山神社
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鎮座地:岡山市東区宿毛183
由緒、御祭神共に不明

28号を西へ進み『出射牧場』の表示の反対側の左手細い道を入り、少し進み最初の道を左折、そのまま南へ進み、突き当りを左折をして進み、池の西側を南へ進むと正面に鳥居、左手の道を進み、突き当りを右折して進むと神社の横手へ出る。
幸地山神社
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岡山市東区邑久郷1328
由緒:当社は、主祭神に応神天皇・相殿に神功皇后及び姫大神を祀る。数度の火災により古文書は焼失したが、「備陽国史」によると八幡宮は京都山城国石清水八幡宮、天満宮は京都北野天満宮から勧請された。邑久郷はもと太伯(おく)の郷と言われ、邑久郡の原(もと)で総社をこの地に定め、古来祝祭日には、郡内式内外古社18 社の神を奉斎し、里人は総社様と呼び、崇敬した。幸地山は「いでましどころ」と称し、天皇行幸地の意で、神武天皇御東征の時、御船を停め山の南端鳥越から、景色を眺望された所である。また、古老の口碑によると寿永年間源平合戦の際、当社にあった鐘を弁慶が陣鐘に持ち去り、今は屋島寺にあるという。故に、備讃瀬戸の船頭歌に「屋島の鐘の音聞けば備前恋しや程遠や」と歌われている。
御祭神:応神天皇、神功皇后、姫大神、天御中主命、菅原神

元の28号へ引き返し、出射牧場の看板の先を北へ進むと池に行きつくので北西を探す
天御中主神社
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鎮座地:岡山市東区邑久郷
由緒、御祭神共に不明

28号へ引き返し少し東へへ、前方信号の右手に鳥居、その奥、路肩に車を停め
沼名前神社(祇園宮) 
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鎮座地:岡山市東区邑久郷
由緒、御祭神共に不明 

28号を東へ、前方信号の右手に鳥居
松江伊津岐神社
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鎮座地:岡山市東区邑久郷1500
由緒:邑久郷はもと太伯(おほく)の郷と言い、神武天皇御東征の砌、皇兄五瀬命、若御毛沼命(神武天皇)日向より海路吉備高島を経由、この太伯の海に到りて兵食を備蓄し舟櫂を修補した。大御船を待ち齋奉れる古跡である。松江は待江の義である。
往古国の総社において祈年、新嘗の祭典があったときは、国司の祭典に預ったという。一時は杵築大明神とも称した。
安仁神社より神官奉務し摂社とあるが、備前国古社128社の一社であり、古くは末社ではない。五瀬命は太伯の海から東行し難波の碕に到り河内の国にて長髄彦と挑戦し給ふ時、賎夫の流矢に当り戦死した。神武天皇は大和の国に入られ給ひ登極された。五瀬命ゆかりのこの海辺の御在所跡に霊宮を建営した。
弘安8年(1285年)備前国神明帳に128社邑久郡18社正五位下松江伊津岐明神とある。本国総社の神主綿抜藤大夫家に持伝えた国内神明帳に松江伊津岐明神と見え、吉備津彦神社の左楽頭熊代氏の本には松江伊津岐神とある。
応永33年(1426年)写本備前国上東郡(邑久郡)八日市村(行幸村)津野宮八幡宮神職山本氏所蔵国内神名位記に従五位上松江伊都岐明神とあり、金剛寺本に従五位下松江伊都岐明神とある。
御祭神:五瀬命、若御毛沼命(神武天皇)


『吉塔』バス停を北上した先にあるが、事前に調べると『ここから狭い道を殆ど真っ直ぐ北に上って行く、かなり狭いので、軽4くらいならよいが、普通自動車で行くのはあまりお勧めしない』と書かれていたが実際は思ったより広かった(鳥居付近に駐車スペースはある。)
麻御山神社(麻御山大明神)
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鎮座地:岡山市東区邑久郷2948
由緒:本国総社神名帳に「麻御山神社」、山本氏本本には「従五位麻御山神」と記されている。貞享元年の神社改帳には、「祈祷村麻御山大明神」と、また宝暦年中の神社書上帳には「邑久郷村之内吉塔山麻御山大明神」とある。今も神山を麻御山という。神武天皇の御東征に御供をした者が、天皇が吉備の高島に御滞在のとき、詔によって斎服を調進するため、ここに麻を植え紡績なさったのがもととなって奉斎した神社である。
御祭神:天日鷲命

南の方に行った割りに適度な運動も?、時間も適当な時間になったので先日と同様なルートで帰宅する。

岡山神社廻り-吉井川東岸永安橋以南

先日に続き同様に東山線を通り新永安橋へ、最初の信号を左折し進むと土手下の道をブルーライン橋の東端直ぐ北側、神社の南側に空き地あり
春日神社
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鎮座地:岡山市東区西大寺新15・16
由緒:文和3年の頃、大和国カスガジンジャから勧請したものと伝えられている。往古は田村字大明神に鎮座せられたが、その後、同村字大仏に、また寛仁7年3月に現在の社地に遷された。旧御神号を春日大明神と称し、今なおその遺跡が存している。
御祭神:天兒屋根命、武甕槌命、齋主命、比賣神

土手下の道を南へ道なりに進んで行くと前方左手に小高い丘、乙子城址の表示と鳥居と階段、そして上に神社らしき建物、稲荷っぽい鳥居もある。
大国主神(乙子城址)
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鎮座地:岡山市東区乙子
由緒、御祭神共に不明

勘違いで乙子城址にあると思い、シンドイ思いをして山頂まで登るが神社らしきもの無し。よく見ると東にある墓地の先、更に間違えて下まで降り、歩いて参詣(乙子城址の南、最初の道を左折して川へ出る手前の突き当り奥に)
乙子神社(乙子大明神)
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鎮座地:岡山市東区乙子237
由緒:当社は乙子城山に鎮座する神社である。創立は詳かではないが本殿内に乙子大明神、延喜4年(904)4月22日御内陣新調の記載がある。御鎮座の山は往古角岬と称え、西南とも入海になっており、東方から4キロメートル余り突出している。若御毛沼命は五瀬命(安仁神社)の御末弟であって、乙子大明神と尊称し奉った。「備陽国誌」に乙子村若宮大明神として見えるが同一神と思われる。また、神武天皇が御東征の際、御登臨されたとも伝えられている。近くに安仁神社や御東征の際海路を御嚮導された珍彦命が祀られている神前神社などがあるのはこれに係わりが深いと思われる。浮田直家が岡山城を築いた時、社領田を奉納し、大いに崇敬した。また、備前藩主池田公も社領5斗を献じた。
御祭神:若御毛沼命(神武天皇)、猿田彦命、夏之賣神、秋比女神

城址前の道を南へ進むと右手土手に神社
木野山神社
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鎮座地:岡山市東区乙子
由緒、御祭神共に不明

更に南下、橋を渡って直ぐ
祇園神社
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鎮座地:岡山市東区乙子
由緒、御祭神共に不明

上記神社前の道を川沿いに登って行き橋の処を右折して進んで行くと鳥居、近くの広めの処へ車停め登って行くと先に神崎梅園が神社の前に、しかして梅の消毒か手前の椿の木が真っ白、口をふさいで急いで通り抜ける。
神前神社
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鎮座地:岡山市東区神崎町2466
由緒:当社の創建年代は不詳であるが、備前国神名帳(総社本)に神前神社7、山本氏本に従3位神前明神と記してある旧社である。中古社号を神崎大明神と称し、御祭神は猿田彦命であったが、明治2年社号を旧号の神前神社に復し、明治9年9月15日珍彦命を祭神として奉斎した。神武天皇の御東征の海路を御嚮導された神であるので例祭の相嘗に高島神を祀り、36台の神饌を献ずる例がある。明治44年12月神饌幣帛料供進神社に指定された。本神社から南方の海岸に亀石という亀に似た岩があり、珍彦命の乗った亀の化石であると尊崇し、亀石神社と称している。また、付近には神武天皇を祭神とする乙子神社や、神武天皇の三兄を祭神とする安仁神社が鎮座している。
御祭神:珍彦命

神前神社前の道を一直線に南下、突き当りの手前を右折すると左手の丘の上に神社、どうも裏道で登り難いが登り、参詣後、南側表参道より降りる
大國神社
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鎮座地:岡山市東区西幸西
由緒:寿永三(一一八四)年十二月七日源平藤戸の合戦で敗れた平氏の落武者不破槙之介と伸之介の兄弟は馬にて児島湾沿に東へ敗走した。弟の伸之介は、この近くの巨岩(鞍掛岩)で馬の鞍を掛け直し上寺方面へ逃れたが、兄の槙之介はここ鍋島で息絶え大國神社通称大國殿として祀られるようになったと、地元では言い伝えられている。その後、天和四(一六八四)年には幸島新田の開拓事業が行われ入植者が移住し住民も増えると享和四(一八〇四)年には両幸西三〇〇戸の氏子によって石祠・石燈籠が建立された。さらに天保十四(一八四三)年には石鳥居と社も建立された。その後、昭和三(一九二八)年と平成十二(二〇〇〇)年に改築されている。
御祭神:不明

東方向へ進み、千町川を越え、近くに車停め歩いて参詣する
幸島稲荷神社
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鎮座地:岡山市東区水門町715
由緒:氏神勧請の縁起によれば、新田に移り住む人々が増加するにつれ、氏神がない住民の間には、他地へ参る難儀を憂える声が高くなり、宝永6年(1709年)7月23日、名主(村役人)6名が連名のうえ、大庄屋土師治兵衛と共に、当時の郡奉行渡辺助左衛門に氏神勧請願いを差し出した。同年9月3日に藩主池田綱政から許可され、ご神体は邑久郡土師村(長船町)木鍋山鎮座の稲荷神社より御分霊を遷し、宮地は東幸島山の林の内と決定した。
喜びに沸く住民は早速準備万端整えて、幸島新田開拓から25年後の宝永6年9月11日めでたくご遷宮を終え、翌12日には奉祝祭を行った。この時、神崎から築渡までの千町川東堤(長さ16町)はご遷宮を祝う幟で埋まり、村民こぞってご神幸の行列をお迎えしたと伝えられている。幟土手の呼称は、登堤とも書き示されているのは、これに由来する。
本殿の造立は正徳2年(1712年)12月5日、石鳥居は正徳3年、随神門は正徳4年、今日の社地の石垣・石段は天保2年(1831年)10月造成である。明治13年3月社殿改築。昭和52年10月には、本殿、幣殿、拝殿は檜皮葺の屋根から、氏子崇敬者の浄財により銅板葺の屋根に大改修され避雷塔も建ち、面目を一新した。なお境内の御厩(神馬舎)は文久2年(1862年)3月、南幸田村の片岡大右衛門源泰の寄進によるものである。
御祭神:高おかみ神、倉稲魂命、瓊々杵命

前記神社の参道口の少し北側に
稲荷神社
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鎮座地:岡山市東区水門町
由緒、御祭神共に不明

232号川沿いに南下、海手前に
亀石神社
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鎮座地:岡山市東区水門町
由緒:ここは、神武天皇の水先案内をした神が乗った大亀の化身(亀岩)を祀った神社で、毎年旧暦6月15日には、ちょうちんを飾った美しいシャギリ船が湾内を巡回する古式豊かな満潮祭が催されます。
御祭神:不明

八嶋稲荷
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鎮座地:岡山市東区水門町
由緒、御祭神共に不明

232号を南下、南水門町で233号へ430m南下右折し突き当たりに250m
宇賀神社
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鎮座地:岡山市東区正儀
由緒、御祭神共に不明

233号へ戻り、山の中を進んで行くと
神山・清浄苑
鎮座地:岡山市東区西片岡990
由緒、御祭神:新興宗教

233号を南へ進んで行くと海へ突き当る、233号を東へ左折して進んだ直ぐ左手に鳥居
金比羅宮
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鎮座地:岡山市東区久々井
由緒、御祭神共に不明

233号を東へ進んで行くと232号へ、南へ進んで行くと宝伝の港へ至る。232号が海に突き当たった左手に赤い鳥居
稲荷神社
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鎮座地:岡山市東区宝伝
由緒、御祭神共に不明

少し232号を引き返し、広めの処へ車停め、道から南側に見える神社を歩いて目指す
宝神社
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鎮座地:岡山市東区宝伝3803
由緒:創立年月日不詳。往昔、海神宮より帰登せられし時、お乗せ申した龍がこの地を這迷えり、そこでこの地を龍這浜と言う。延喜中(901〜923年)、菅原道真公この沖を御通船の時、当社の松に龍燈上りしと言伝えあり、社辺の樹木悉く幡龍の形を見せる。
又、建武3年(1336年)足利尊氏公御通船の時も龍燈上り、軍船大いに喜んで暫く停船するなど、御神徳の発揚、氏人の尊信誠に篤かりしに、明治42年7月3日、岡山県訓令22条により、多額の基本財産の造成・常住神職の奉仕等の条項にて、当時の氏子としては負担に堪え難きにより、同年9月25日、東片岡鎮座八幡宮へ合紀することとなり、以来、里人は恰かも赤子の慈母に遠ざかる念に耐えて、日夜敬慕し、旧の如く御還御を祈りて止めることがなく、その赤心、神慮に通じ衆議愈々熟し、御玉垣の内外に老松高く茂る旧社域を清浄にし、新たに社殿を造営することに決す。そこで、郷民挙げて浄財を奉献し、男女悉く工役に仕え奉り、旧の社殿に増して尊厳にして、神威を長久に輝かすべき社殿麗しく落成す。時に昭和2年のことである。
例祭・諸祭祀等厳修しながら、昭和24年宗教法人令第3条により形式上の分祀還御の認可を得て現在に至る。
御祭神:彦火火出見尊

港にある案内で金比羅神社を目指す。232号を東へ進んで隣の港の側
金比羅神社
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鎮座地:岡山市東区宝伝
由緒、御祭神共に不明

232号を北へ引き返し、どんどん北へ進み232号が左折して西へ進む処を直進し前方突き当りを右に、次の突き当りを右にとり東方向へ進んで行くと池に出会うので、山際の道を引き返す感じでV字ターンして進み広めの場所へ車を停め、近くの人に聞くと写真を見せて前方に見えると教えられる。西側から廻り込めば車でも可能だが現在工事中で通行は無理とのこと、田んぼ道を強引に歩いて目指す。
伊登美宮
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鎮座地岡山市東区東片岡1190
由緒:創建年月日不詳、伊登美宮は屯集宮の義で、神武天皇の御東遷の時、従い奉った将士の駐屯した処で、幾多の神を祭る社である。昔より安仁神社の摂社として地方民の崇敬が厚い。
御祭神:幾多神

先ほどお聞きした人が牛神社が近くにあると教えられる。案内してくれるのでお長いした。非常に簡単な祠、同じ場所に先祖の碑らしきものもありよく分からない
牛神神社
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鎮座地:岡山市東区東片岡
由緒、御祭神共に不明

元の池の処まで引き返し、池に沿って更に西へ進んで行くと前方右手高い処に神社が見えるので目指す。(途中道が狭く大変、神社の前には駐車スペース有))
天神社
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鎮座地:岡山市東区東片岡1593
由緒:創建年月日不詳、安仁神社の境外末社で、老朽化が激しく昭和58年10月、氏子の浄財を以って幣殿・拝殿を再建する。古道里近郊の崇敬が厚い。
御祭神:菅原道真、天御中主神

少し引き返し、東方向へ下る感じで進むと、小さい川に突き当るので右折して進んで行き、少し離れた空地へ車を停め歩いて参詣。方向は見当つけているが、ナビが無いと少し難しい。参詣道も整備されてなく、距離、勾配ともシンドイ。
綱掛石神社
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鎮座地:岡山市東区東片岡1695
由緒:創建年月日不詳。神武天皇東遷の時、御船の纜を掛けられたという大きな石がある。この石の下に奉斎されている社であって、安仁神社の末社として地方民の崇敬が厚い。周辺には環状列石らしい磐境(いわさか)があり古代の祭祀跡とみられている。この地より高島が一望できる。
御祭神:田心姫命、狭依姫命、瑞津姫命

元へ引き返し川沿いに北へ進んで行くと前方右手に神社が
咳神宮
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鎮座地:岡山市東区西大寺一宮1470
由緒、御祭神共に不明

神社前を北へ進み、突き当りを左折して進むみ、突き当りを左折して西へ進むと左手に神社、進んで行き左折して進むと駐車場に至る。車道はあるが歩いて参詣する。さすが有名な神社、境内は綺麗に掃き清められている。
安仁神社
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鎮座地:岡山市東区西大寺一宮895
由緒:当社の創立年月日は不詳である。「続日本後紀」の承和8年(841)2月8日の条に『安仁神預名神焉(あにのかみみょうじんにあづかる)』とあるのが初見で、「延喜式神名帳」に備前国名神大社とある。古くは「兄神社」又は「久方宮(ひさかたのみや)」と称したとも伝えられている。御祭神は五瀬命・稲氷命・御毛沼命等である。この社地は、宮城山(みやしろやま)、別名鶴山といい、元宮は標高80メートル位の頂上にあった。その後、備前藩主池田家の祈願所として現在の地に鎮座した。明治4年国幣中社に列せられ勅使の御参向があった。大正15年皇太子殿下が行啓され、祈年祭・新嘗祭・例大祭には幣帛供進使の参向などがあり、戦前(大東亜戦争まで)は荘厳で隆盛な神域であった。昔はこの鶴山の麓まで海であり、入江の奥の良港だった。後方の山には磐座や列石があり、古代の祭祀跡と見られるところに、神武東征の船の「ともづな」を掛けたといわれる「綱掛石神社」などがある。
御祭神:五瀬命、稻氷命、御毛沼命

安仁神社の北側の参詣口を確かめるため北へ進み、235号へ、右折して進むと前方川を渡った直ぐに
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金刀比羅神社
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鎮座地:岡山市東区西大寺一宮
由緒、御祭神共に不明

235号に従い北へ、右に曲がっている処を直進し、広めの場所に車停め、歩いて北東を目指す(歩いて探すと意外と見つけやすい)
荒神社
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鎮座地:岡山市東区西大寺一宮1657
由緒:創建年月日不詳、往昔より瀧神社の末社としても地方民の崇敬が篤い。
御祭神:火産霊神、國津比古神、奥津比売神

車を停めた辺りから坂道を進み少し進むと左下へ降りる道が見えるので手前に車を停め歩いて
牛神神社
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鎮座地:岡山市東区西大寺一宮
由緒、御祭神共に不明

235号へ戻り235号を西へ進むと234号に突き当る、十字路の南西の角に祠がある
不明祠
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鎮座地:岡山市東区東幸崎
由緒、御祭神共に不明

234号を南へ進んで行くと左手に階段が見えるので、近くに車を停め歩いて参詣する。結構長い参道の途中左手に牛神神社が、最初見落とし、帰り慎重に探しながら帰る
妹岡八幡宮
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鎮座地:岡山市東区東片岡980
由緒:文治2年(1186年)8月山城の国男山八幡宮より勧請する。片岡八郎常春の居住(大着山城内)より5〜6町離れ丑寅の方角に当たる入賀の郷、妹岡山に守護神として奉斎。片岡弾正常明より社領、田畑八町二反を寄付、嫡子片岡主計常清を社司として、次男玄蕃之助常胤に武家を相続させた。常清子孫代々神務に励むが、国司金吾中納言の時、社領を召し上げられ、宝物も多数紛失したらしい。その後、当主池田輝政公より御高一石二斗の寄付を明治4年まで社納していたが、同年廃止される。 常春の末流片岡浅治の家より注連竹6本を献ずるのが例になっていた。
明治42年12月、近郷の村社(片岡別宮天神・宝伝神社・天津神社・宇賀神社・山神社・飯盛神社)を合祀する。しかし、数年を経て、それぞれの村民の要望により各所に還御され奉斎されている。明治45年1月1日神饌幣帛料供進神社に指定される。
御祭神:応神天皇、仲哀天皇、神功皇后

牛神神社
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鎮座地:岡山市東区東片岡
由緒、御祭神共に不明

234号を南へ通る時左手見えた石柱を探しながら北へ、路肩へ車を停め参詣
太経神社
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鎮座地:岡山市東区東片岡
由緒、御祭神共に不明

帰り路の途中に寄るべき神社がまだ結構あるが時間が遅いので中止、28号からブルーライン経由で帰宅

神社廻り-永安橋から北東へ

どうも冬は寒くて天気が悪く余り出かけない。昨日は天気は良かったがが妻に付き合ったため、天気は曇りっぽいが風がないので西大寺永安橋を渡り、吉井川東岸の北方向を目指す。久しぶりに東山-西大寺線(県道28号線)を通り永安橋へ(やはりこの道は混んでいる)
永安橋東信号を左折進んで行くうと右手に神社が、北側の広めの路肩へ車を停め参詣する。
豊原角神社
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鎮座地:岡山市東区西大寺浜104-1
由緒:本社の創建年代由緒等は不詳であるが、備前国神名帳(山本氏本)に、従五位上豊原角明神とあり、備前国古社128社の一つで式外の神社である。古くは豊原角明神と言われており、次第に白山権現と称えられるようになり、明治2年白山神社と改称、明治3年豊原角神社と旧社名に復したと思われる。『改訂邑久郡史』などに依れば、宇喜多家代々の崇敬が誠に厚く、社領は50石を賜わっていたが、慶長年中、小早川秀秋公に没収され、池田家よりは代々4石7斗9升9合を賜わった。更にさかのぼって中世の応永元年の頃神庫が火災となり、往古の記録が失われた事が記されており、このために何時の時代に、北陸の加賀国、今の石川県より、霊峰白山の神々を此の西大寺浜の地に(此の地は往古、古井川が瀬戸内海、見島湾に注ぐ河口であり、白砂の浜辺であった)何如なる理由でお迎え申し上げたかは、全くの謎である。但し、当神社の御神紋は非常に珍らしく「三子持亀甲風花」(みつこもちきっこううりのはな)と呼ばれ、実に石川県石川郡鶴来町三宮町鎮座の元国幣中社白山比め神社と同一であり、故に然るべき理由が有って神々を御勧請申し上げたかと思われる。更に『改訂邑久郡史』では、中世の神仏習合の時代には、神宮寺たる願満寺かあり、社僧が神職と共に奉仕していた事、或は又、当神社はもともと、豊村長沼字円定寺山の麓に鎮座していたが、これを一度、西大寺浜の下荒神の地に遷座、後の世に再度遷座して、円定寺山麓より4〜5町も離れた現在地に移された事、も述べられており、現在では、その真偽の程は明らかではないが、鎮座地の3度の変遷は、おのずと当神社の歴史の古さを物語るようにも思われる。
又、現存する棟札は、ほんの数枚を数えるのみであるが『改訂邑久郡史』『大正4年邑久郡神社詰』などでは、慶長17子年9月吉日 奉造営新宮六社権現本社  寛政元年9月吉日 奉建立白山権現 神職 祝部権之丞  寛政元年5月吉祥日 奉修葺白山権現御屋根 雨宮 祝部縫殿 等々、歴史を如実に物語る貴重な棟札が幾枚も存していた事が知られ、当神社の歴史を明らかにする上で、代々祠官として奉仕した、祝部家の系図の研究の大切さが、又、御祭神の名前決定の難しさが、よく理解されるかと思われる。
扨、昭和9年9月10日神饌幣帛料供進の神社に指定され、戦前は旧豊村の総氏神として仰がれ、又、殊に歯痛を和らげるに霊験あらたかな神として(ハクサン様→ハクサ様→歯草様)社頭の隆盛をみた当神社も、戦後40年余りに亘って、社殿、神域の荒廃がすすみ、(然し祭祀は厳修されていた)心有る地域の人々を嘆かせていた。昭和60年頃より昭和62年にかけて、建設省が施工した一級河川吉井川改修(新地提防)工事に、境内地の一部の譲渡を余儀なくされ、これを契機に氏子一同力を併わせて、社殿ことごとくを改築移転を為し、白壁、総銅板葺きの社殿が、昭和の大修復として美事に甦ったのである。更にその後、社務所も新築され、鎮守の杜の復活を念じて植樹も施され、御社頭は面目を一新し、秋祭りを中心に、年中行事には老若男女氏子挙りて参加する美しさ信仰も復活、此の有様を見て、神職総代一同一丸となりて、弥益々の御神徳の発揚を目指す昨今である。
御祭神:白山比め大神、大己貴命、少彦名命
西大寺と言っても吉井川の東岸か、結構広い境内である

北側の道を橋を渡って直進し、前方郵便局手前を左折直進し倉庫群を目指し、突き当たりを右折、左折して進み、次にある道を左折、突き当たりを右折して、その奥に神社が(倉庫群の北側を東方向へ進んで行くとみだり手に見えてくるので車を停めて歩いて)
八幡宮
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鎮座地:岡山市東区西大寺川口232
由緒:創立年代、由緒等は不詳であるが、往古は西大寺窪八幡宮の御神幸所であったと云われる。又、近くの上寺山豊原北島神社の玉垣に川口の人々の名前が刻まれている事から、豊原北島神社との関係も注目され、同神社への参拝が不便なるが故に(往時吉井川が川口地区の東を流れ神崎に注いでおり、今の千町平野は海であった)川口地区にも八幡宮を祀ったと古老は口碑に伝えている。実に往時は、吉井川の河口に開けた集落ゆえに川口と呼ばれたのであり、附近の地名−豊原北島、豊原南島、神綺、浜、新地、新(しむら)−等々を総合的に考察すれば、かなりの古社である事がわかる。現存する棟札で最古のものは、文政4年のもので、文政4年辛巳年 奉建立 幣殿拝殿一宇 神職 柴俊治守貫 名主 片岡藤三郎  五人組頭 阿部十三郎  世話人 阿部良助  大工 安田常三郎とあり、文政4年巳年9月9日 阿倍 良介との古き石燈篭も存する事より、当時かなりの整備、改築が行なわれ、神職も柴家が代々奉仕していた事が伺われるのである。神社明細帳(明治初年版)に依れば、社鎖は6斗1升を賜わり、神職、柴啓治は先祖平左ヱ門より8代目である事などがわかるのである。更に 天保7年4月、石橋の寄進 阿部 良介 明治17年5月 本殿の屋根替え 明治42年10月 狛犬奉納 柴 葺四郎 大正7年1月 注連柱建立 柴 清七 昭和18年5月 本殿銅板葺替 氏子中 昭和47年10月 拝殿改築 氏子中 等々の寄進や修築がなされて来た事がわかるのであり、寛文年中に戸数70戸と文献に残る川口は、現在も80戸余りの氏子であるが、この小さな川口地区が、立派な氏神様を先祖代々守護して来た事は特筆すべきであろう。
御祭神:応神天皇、仲哀天皇、神功皇后

南東を目指して倉庫群を抜けると69号へ、北東進み、西大寺門前信号で右折し226号を進むと左手に『余慶寺』の表示、表示に従い左折して進み、多少曲りくねっているが突き当りが神社と寺院
豊原北島神社
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鎮座地:瀬戸内市邑久町北島1186
由緒:舒明天皇6年(634)豊前国宇佐より勧請、神社東の鎮座石の上にわらをとき敷いて奉祀したことから、「ときわら」が荘名の「とよはら」となったと社伝にいう。北島は往古この地が島であったことを示し、豊原荘北島に座す神社で延喜式外の古社、従五位上豊原北嶋明神・上八幡大菩薩・正八幡宮ともいわれ、平安時代には近衛天皇の勅願所・白河・後鳥羽院領の鎮守神でもあった。平安末、山続きの今木城では源平合戦が行われ、また、源氏の武将佐々木盛綱は児島藤戸合戦の折、戦勝を祈願して甲胃・武具を奉納、鎌倉末から南北朝時代には児島高徳の同族といわれる大富・和田・射越氏などが氏子より興って南朝方として活躍した。社殿もこれらの兵火などによって焼失したといわれるが、領家・領主・氏子により造営・神領の寄進が行われた。現社殿は、本殿を大正8年に、他を昭和14年に昔の様式によって鎮座1300年を記念して改築した。
神社を中心に両側に寺坊の建ち並ぶ形は、平安時代の神仏習合(本地垂迹)の形をとどめている今では珍しい古い形で、神仏の分離は藩主池田光政により行われ、寛文6年(1666年)余慶寺本乗院良庸が還俗して神職となり代々相続している。六代業合大枝(なりあいおおえ)は、本居宣長・平田篤胤・藤井高尚の門人で歌人、国学者。「新学異見弁」・「古事記神代記新釈」などの著があり、境内に歌碑・神社東に旧宅がある。
明治3年豊原北嶋神社と社名を改め、明治4年郷社、明治41年神饌幣帛料供進神社となった。
御祭神:応神天皇、神功皇后 、比め大神、豊原北島神、品陀和気命
寺社習合の名残、神社もかなり立派だが、流石お寺と言う感じもする。それにしてもかなりの数のお寺さんがあるものだ。

神社前を右手に進み、左折し、団地の手前を道なりに進む(最初の道を右折、左折し進み、三叉路を右折、広めの道を南方向へ)小さな川に突き当り、左折し進む、左にカーブして、北へ、三叉路を左手に、突き当たりを左折、次を右折して北上すると突き当りに鳥居が
大池神社
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鎮座地:瀬戸内市邑久町向山
由緒、御祭神共に不明
簡単に見つかるつもりだったが違う道を通っていたのか全く分からなくなってしまった。曇り空では方向感覚が駄目で、タブレットのナビでやっと行きつく。車の停車場所、対向車等、結構時間を取られた。長い距離をやはり覚え切れてない、歳のせいか

神社右横の道を北上すると今城幼稚園・小学校を側を通り突き当るので左折、次を右折して赤穂線を越え、直ぐ左折突き当りを右折して進むと左手に石段、前に空き地があるので車を置いて参詣する。(距離がありそうなので本来は車道を通るつもりだったが?これまでの経験で冬場と風の強い後は車道に結構大きな木が倒れていることがあり、歩く方が無難なことが多い)
大富八幡宮
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鎮座地:瀬戸内市邑久町大富826-1
由緒:当社の創建年代は、嘉暦年代(1326〜1329)児島高徳の臣、大富太郎幸範が最も崇敬し、願主となり本社を改築し大宮八幡宮と称した。大富太郎幸範公は児島高徳、今木太郎等と共に船坂に至り三石(現在の備前市)において戦死、遺物を大富村に修め大冨八幡宮の境内末社として若宮神社を創立した。明治44年11月15日、郷社豊原北島神社に合祀されたが昭和21年11月15目に、氏子、崇敬者の熱望により郷社豊原北島神社から分離された。
御祭神:譽田別天皇、息長帶姫命、比め大神

先ほどの十字路迄引き返し、右手に進んで69号へ、右折して進み、大富信号を左折川沿いに進み、右手に『山根』の標識の橋の反対へ右折し、進むと宗三公会堂の先右手にこんもりとした木々の場所
天津神社
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鎮座地:瀬戸内市邑久町宗三176
由緒:本神社は文亀2年(1502年)1月6日夜亥刻、山城国明現山から勧請し、明現様と称して人々の崇敬が篤い。天文元年(1736年)11月6日、池田内匠頭、御鷹狩の節御参詣の記録がある。秋の大祭に際し、村中総出で径30センチくらいもある大注連をない、鳥居に張る。
御祭神:天御中主命

69号迄引き返し、橋を渡りに方向へ進み、十字路を右折、Y字路手前の広めの路肩に車を停め参詣道を登って行く。(Y字路正面に公園と小さな崖、その上に石碑、そしてY字路を右手に進んだ少し先左手に参詣道)
八幡宮
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鎮座地:瀬戸内市邑久町福中960
由緒:本神社の創建年月日、由緒等は不詳である。備前国古社128社の1社で、藩主池田氏が崇敬し、社領として毎年米3石4斗7升の寄進が明治3年まであった。祭礼の夜、鎮座地宮山に青年団員の手で高く掲げられる12張りの提灯の明かりは、遠く小豆島からも見えたという。以前は、福中下(山根)の青年団員の手で12張りを掲げていたが、現在は青年団員の減少のため、宮総代が協力して掲げている。
御祭神:神功皇后、応神天皇、玉依姫命
次の神社を参詣した後神社の北側から車道を通るつもりだったが中止

元のY字路へ引き返しY字路を左へ直進し、突き当りを右へ進んで行くと『長寿の郷邑久』その先左手に鳥居
不明神社
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鎮座地:瀬戸内市邑久町福中
由緒、御祭神共に不明

ゴルフクラブ前を右方向へ進みと前方に三叉路、右折し手進むと前記『八幡宮』、左折して北へ、突き当りの角に石柱
日吉神社
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鎮座地:瀬戸内市邑久町福中
由緒、御祭神共に不明
神社跡?赤い鳥居が捨てられている?何かよく分からない

前の道を真っ直ぐ東へ進み、川に突き当ると左折し、進んで行った先に
岡八幡宮
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鎮座地:瀬戸内市邑久町福元257
由緒:本神社の創立年月日については、貞享4年(1687年)の記録に「鎮座ノ年紀ハ遠カニシテ暦数ヲ知ラズ」とあり、詳かでない。また、岡氏・福間氏ら惣氏子が神殿の荒廃を歎き再興を図り、元禄5年(1692年)には舞殿一宇を建立したという棟札がある。社領二石二斗。「岡八幡宮」と称している。昭和40年12月、本殿の御屋根葺替。昭和55年10月、幣殿、拝殿改築。
末社の一つ池岩神社は、通称「お祇園様」として旧暦6月14日の祭日には、昭和19年ごろ支で青年団員を中心にダシ(史上伝説上の人物や名場面を実物大の人形で再現)を飾っていた。東部落と西部落がダシを競い合って賑った。今も幟旗を翻し、花火を打上げる。屋台店が来て、近郷の崇敬者も多数参拝し、夏祭としてにぎわっている。
御祭神:神功皇后、応神天皇、玉依姫命
神社の下側川沿いの奥に神社あり合社されているのか?
最近多いのだが、駐車場有にもかかわらず鎖が張られ入れない処が多い、多分関係ない車が長時間駐車しているのであろう!困ったものだ

本来進むつもりの69号が工事中で前面通行止め、北へ廻り橋を渡って川沿いに北上、しばらく進んだ先ある橋を渡り東に進むと69号へ(今回は通行止め-川を渡る69号へ左折して北方向へ進み、駐在所表示を左折し進み)、前方『介護老人保健施設邑久ナーシングホーム』先を進み橋の横『峨城山』入り口を表示に従い進むと神社前に着く。
王持八幡宮
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鎮座地:瀬戸内市邑久町上笠加2
由緒:社伝によると延文5年(1360年)4月、播磨龍野城主、脇坂久左衛門尉源忠典が神託によって豊前国から八幡宮を勧請して社殿を創建した。
当社は仲哀天皇の皇子応神天皇を首座に祀ってあるので皇子八幡宮と言っていたが、文録元年(1592年)4月、豊臣秀吉朝鮮征討の時に、其の武将、森忠政がこの宮山に来て「本社は三韓を降伏せし大神なれば」とて暫く滞在し、戦勝祈願をして峨城山と変えた。その時、藤井神主に、永代、森忠政「王を保ち守護すべき様」下命して、以来皇子を王持とし、忠政凱旋してから報賽として天正15年(1587年)8月8日、唐面と上り龍下り龍絵馬二面を奉納した。
池田藩政時代は社領三石四舛、明治43年5月20日箕輪甲山の八幡宮(嘉吉2年(1442年)3月、上笠加氏神の第一神子の薫女、神託により、国主宇喜多直家に出願して王持八幡宮の分霊を祠っていた)同年同月日、北池字宮の前の八幡宮(永享3(1746年)年6月宮内少輔原田信蕃、山城国男山より勧請)をそれぞれ合祀した。
御祭神:神功皇后、応神天皇、仲哀天皇

69号へ戻り、橋を渡り進み、再度橋を渡り、東に進み、寺横を北上、突き当り十字路を左折し進み、突き当りを右折し進むと左手に見えてくる
土戸八幡宮
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鎮座地:瀬戸内市邑久町豆田755
由緒:本神社の創立年月日、由緒などは詳かでない。「備陽国誌」に「土戸八幡宮」とあるのは本神社のことで、社領一石であった。昭和62年本殿御屋根を銅板で葺き、幣殿、拝殿改築。祭礼当日、境内で子ども相撲が行われる。
御祭神:神功皇后、応神天皇、比め大神、息長帯姫命、品陀和気命

元へ引き返し、69号を北上し、前方橋を渡り右折してて83号へ、東へ進むと左手に
片山日子神社
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鎮座地:瀬戸内市長船町土師799
由緒:当社は延喜式神名帳に伊勢国鈴鹿郡片山神社と同神とある。備前国神名帳には従2位片山日子神社とある。往古現在の社地前方の神山に鎮座していたのを、後冷泉天皇、天喜3年(1055)乙未8月、勅により現在の地に遷座したと伝えられている。明治6年郷社に列格。明治40年1月、神饌幣帛料供進神社に指定された。
御祭神:片山日子神

川沿い(83号)東へ向かう信号の先の橋を渡り、前方の小山を目指す、右折して進み、左手坂道を登る(長船スポーツ公園北)
木鍋八幡宮(松尾神社)
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鎮座地:瀬戸内市長船町土師2191
由緒:木鍋とは木閇の訛伝で、木閇は気陪で、豊受の受と同じ意で、五穀を守護し給う縁由である。木閇宿禰命は、大和国広瀬郡木瓶村に御住居になっていたのを土師村に奉祀し、木閇神社と称した。人皇第49代光仁天皇の宝亀3年(772年)正月、備前守藤原朝臣雄依が神託を蒙って大和国奈良郡から八幡宮を勧請し、木鍋八幡宮とした。本神社は、癇疾の者に霊応著しき神徳がある。明治40年10月神饌幣帛料供進神社に指定された。
御祭神:木閇宿禰命、大山咋命、品陀和気天皇、息長足比売命、比売大神

またしてもバッテリ切れのため急遽参詣は中止、天気も曇りであまり先まで続ける意志は強くなかったので中止、今日は元々が湿地とか海とかそういう場所柄のせいか、元島みたいな感じの場所が多かった。

岡山の神社廻り牛窓その1

今日は奥さんも遊びに行っていないし、今年初の神社廻り、寒波が押し寄せ寒い日が続いてどうも出かける気が起きない。天気も良さそうなので意を決して出かける。今日の予定をタブレットに取り込もうとしたがネットに繋がらない。色々試してやっと繋がるがおかげで出発が遅れてしまった。
今日は牛窓方面を目指す。2号線バイパスからブルーラインへ、邑久インターで降りる。時間的には大したことは無いが距離は以外とある。降りて直ぐ左折して39号を南へ進み、本庄信号で右折、西へ進むと右手に小高い丘と階段と鳥居、前の空き地に車を停め参詣
高星神社
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鎮座地:瀬戸内市邑久町本庄
由緒、御祭神共に不明

引き返し、39号を横切り224号を東へ、前方左手に鳥居が見えるので少し引き返し左折して進み直ぐ右折、直進すると鳥居の正面へ、突き当たりに道が4本、川沿いの一番左の道以外は神社へ、まずは右2番目を進んで見る。今年も最初から感が冴えないか神社の参詣道の中間地点だが行き止まり、そしてUターンは無理、途中まで階段を上がり随身門までで引き返し、車もバックで引き返し、左2番目の道を進み、山頂の広い境内に、安心して参拝を済ます。人っ子一人いなかったが新年のせいか綺麗に清掃され心地が非常に良かった。
大土井正八幡宮
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鎮座地:瀬戸内市邑久町尻海980
由緒:元正天皇の養老元年(717)豊前国宇佐から勧請したと伝えられている。應永年中(1394〜1427)清原備前守沙彌が本社を建立、社領は九十町であった。元亀年中(1570〜1572)浦上遠州が大願主となり、市村真輔入道、河本左衞門進が神殿を再建し、社領50石の寄進があったがこれは後、金吾中納言(小早川秀秋)により没収される。慶安元年(1648)佐井田神主社僧圓林坊連判の書き上げによれば当社は、宮数11の内、本殿3間四面、拝殿3間に5間、高麗御前、御供所門客人五社大明神、薬師堂、伊勢御前、天神、鐘楼、弁財天とあり、当時の神仏混淆の様子がうかがえる。その後池田三左衞門(輝政)から明治5年まで累代に亘り、毎年1石と注連竹が寄進された。寛文12年(1672)本社並びに釣殿・拝殿・廻廊その他の再興にあたり、藩主池田継政から米10石の寄進を受けた。明治42年神饌幣帛料供進神社に指定され、翌年村社伊勢荒魂神社ほか6社を合祀した。本社は、古来からの例として、氏子中、粟利郷の男女15歳未満の者が大祭に限り、一様に木太刀、薙刀を持ち太刀踊りを踊る。(岡山県及び牛窓町指定無形民俗文化財)
御祭神:応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、天御中主神、彦火火出見尊
帰り一番右の道を通り224号に出るが、ここに案内板が設置されているし左に鳥居も見られるの此のコースがベターか?

224号を引き返し前方に広めの場所に車を停め歩いて行くことにする。(今回の道の方が狭そうなのでバックが嫌なので)手前を左折、突き当たりを右折、最初の道を左折、Y字路を右折突き当り、これで問題なく参詣できるが神社の下に舗装はされてないが駐車スペースあり、良い運動になったと思うことに。
荒魂神社
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鎮座地:瀬戸内市邑久町本庄
由緒、御祭神共に不明

39号へ戻り南へ、牛窓の道の駅を過ぎ、小さな高架を潜った坂道の先、前方の十字路を左折した直ぐ先、左手の高台に(東隣にお堂?)
牛神社
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鎮座地:瀬戸内市牛窓町長浜
由緒、御祭神共に不明

39号を南下し、左折し225号へ(長浜信号)JAを左折、突き当りを右折して進み先の橋の手前を左折して小さな橋を渡り、突き当りを右折、直ぐの道を左折し、先の三叉路を右折して進むと、『寒風陶芸の里』を目指し進み、陶芸会館標識右に、直ぐの細い道を左折、進むと鳥居(車は手前、先に停める。車で通行は可能だが停める場所に?)
天神社
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鎮座地:瀬戸内市牛窓町長浜
由緒、御祭神共に不明

前の道を道なりに東、南へと進むと225号へ、東へ進み、尻海駐在所手前に『神田稲荷神社入口』の標識を左折、道なりに進んで行くと前方に坂道、登って行くと右手に神田稲荷神社入口(入った道の一本東の道右斜めに進んだ先階段)ここへ行くより手前のグランドの反対側に駐車場有
若宮八幡宮
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鎮座地:瀬戸内市邑久町尻海3038
由緒:当社は古くは字大土井カベラに鎮座し、結体角弥、藤藏秀則、朝日寺、横尾光花寺の三家が奉仕したが、寛正6年(1466)乙酉14日現在の地に移転した。社領8斗。明治42年神饌幣帛料供進神社に指定された。翌年5月28日、村社大山祗神社ほか境外末社を合祀した。末社の神田稲荷神社は神徳顕著であるため人々の尊崇が篤い。寛政年間、また明治40年に社殿を改築した。平成6年3月本殿改築。同10月幣殿、拝殿改築。
御祭神:仁徳天皇、仲哀天皇、神功皇后、大山祇神
末社とあるが神田稲荷神社も本社に劣らないほど立派であるし、何か独立した雰囲気の神社の様子である

225号を東へ進み3つ目の港の処で右折し、T字路を右折して進み、突き当り水門の側へ車停め、歩いて、先のT字路を左折し、突き当り辺りを右折して山側に進んで行くと前方V寺の坂道、進んで行くと鳥居が。
天津神社
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鎮座地:瀬戸内市邑久町尻海
由緒、御祭神共に不明

東方向はここで引き返し途中見かけた神社に立ち寄る。一番最初の港に入る手前の北側、草がぼうぼう生えていて管理・参拝する人が居ないのか?
塩蔵宮
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鎮座地:瀬戸内市邑久町尻海
由緒、御祭神共に不明

225号より少し離れた南に見えた鳥居を目指す、大東集会所を少し西に進んだ先の道を左手(南)へ入り、太陽電池パネルを置いてある一番南を目指し、車を停め歩いて参詣する。
大嶋宮
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鎮座地:瀬戸内市邑久町尻海
由緒、御祭神共に不明
ここも手入れのされない神社、大きな碑が建っていて、また塩田跡地が遠望できる位置にある。

39号へ戻り、長浜信号の先、左手に石柱が見える。
殉国軍人招魂社
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鎮座地:瀬戸内市牛窓町長浜
由緒、御祭神共に不明

39号を少し進んだ右手に神社が見えてき、少し進むと右手に道(参詣入口)
小野島神社(御祇園様)
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鎮座地:瀬戸内市牛窓町長浜1149
由緒:境外末社小野島神社は、天保2年(1831年)9月再建、奥浦祇園宮として、衆諸の尊崇篤く春祭5月、夏祭7月、例祭10月のそれぞれ第三日曜日には小学生の男子により、相撲大会が献上される。
御祭神:素盞嗚命

39号を南へ、先にある点滅信号を右折、直ぐ左折、直ぐに右折して直進、三叉路を右折、池の角を左折、池の土手を通り右折左手に、結構長めの階段を登った先で田舎としては結構派手目な神社、北側に車道があるようだが確認せず、階段も妥当なものと思う
春日神社
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鎮座地:瀬戸内市牛窓町長浜914
由緒:本神社の創建年月日は不詳であるが、棟札に慶雲3年(706)申4月及び慶長13年(1608)卯月再建立とある。特殊神事として神前に粥を焚き、2寸5分の竹管3本を入れ、その年の五穀の豊凶を卜した古来卜祭が伝えられている。これは古くから神託によるものとされている。昭和17年2月、神饌幣帛料供進神社に指定された。
御祭神:天兒屋根命、武甕槌命、齋主命、姫大神
39号へ引き返す

39号を南下、28号へ突き当る紺浦信号手前左手に(前に駐車場、北側に車道?)
素盞嗚男神社(疫神社)
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鎮座地:瀬戸内市牛窓町牛窓4928
由緒:江戸時代、牛窓地方に疫病が流行した際、牛窓神社の境内に牛頭天王の祠を祀って悪疫退散を祈願した。これが疫神社の起こりで、のちにまた疫病に見舞われた紺浦では、牛窓神社境内から、この疫神社を現在地に移したと伝える。明治2年、素盞嗚神社と改称された。神社旧記には、「疫病流行、人命を失う者少なからず、依て此所に勧請し、衆人信仰ますます多し、紺浦氏神同様に崇尊し云々」と有りる。口碑によると疫病の大流行後、習慣として7年毎に疫病祓いの祈祷が行なわれた。先ず神前に草花を飾り、各家々では団子を作って白米と共に神前に供え、部落の老若男女が境内に参集して、太鼓を叩きながら呪文を唱え、白布を身体に巻き、大く長い注連縄を相互いに手繰りつつ合掌して、これを拝んだという。故にこれをお注連の舞いと称え、賑やかな神事であったと伝えられている。それ故、古老は今尚、御薬神様、疫神様、お注連様と称えている。本社は、牛窓神社、五香宮とともに古い由緒を有する神社で神功皇后が西国よりの御帰途、舟をこの浦に泊めさせられ、磯辺の岩に腰をお掛けになり、この宮に伝わる舞を御覧になられたと伝え、又一説には、彼の国より連れて来た童見に、舞を舞わせて、海路の無聊をなぐさめられたとも伝えている。そしてその特、腰を掛けさせられた岩を腰掛石と唱え遺蹟として今に保存せられ、その童見の舞を唐子踊り、唐子の舞いと称して、毎年秋季祭礼には神事としてこれを奉納している。
御祭神:素盞嗚命

左折して28号を東へ、『清酒・千寿』看板の手前右手奥
塩釜神社
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鎮座地:瀬戸内市牛窓町牛窓
由緒、御祭神共に不明

時間的な余裕はあるが雨が降り出し、風が強くなりもったいないが今日は中止、一直線に帰る

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