岡山県内神社巡り(メイン)

片っぱしらからの神社巡り

2015年02月

神社廻り-虫明・牛窓方面

天気はあまり良くないが、さすがに2月も終わり余り寒くないので昼前だが出かける。近場は残ってないのでどうしても遠くになるが今回は、虫明から以前の牛窓方面の未参詣神社を
ブルーラインから虫明ICで降り、224号を東へ、信号の手前、路肩に車停め、左手裳掛小のグランド奥にある神社を目指す。
裳掛八幡宮(正八幡宮)
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鎮座地:瀬戸内市邑久町虫明1
由緒:宝亀年中(770〜780年)大隅国から正八幡宮勧請(大隅正八幡宮旧官幣大社鹿児島神宮にゆかりあるかと勘案す)「弘安9年(1286年)11月吉日、奉再興八幡宮」「慶長10年(1606年)10月13日、八幡宮奉造立」「元禄5壬申(1692年)9月、八幡宮拝殿一宇、伊木清兵衛忠親修造焉」「大正4年10月吉日、奉棟上、天御中主神罔象女神、五王龍神宮、造営吉洋、工匠井上松次敬自」等の棟札有りしと伝う。岡山藩主池田家筆頭国家老、伊木氏(三萬三千石)の知行所であった。伊木氏の崇敬篤く、社殿の改築及び甲胃等を奉納した。社領は二石四升七合であった。明治40年10月、神饌幣帛料供進神社に指定せられた。明治42年9月15日、村内諸社22社を合祠す。飛地合祀社皇子宮で昭和60年10月例祭より神輿神幸が興り、又、飛地合祀社、宗道神社の例祭日に神幸行事あり。八幡宮御神徳顕著なりと伝う。明治43年12月13日、八幡宮火を失し、随神門を除くの外、烏有に帰し、その他の宝物類も焼失した。大正4四年現在に改築された。
御祭神:仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、天御中主大神、彦火火出見尊

224号を東へ進んで行き、前方224号に従い左折して進み、左手のJA岡山裳掛に車を停め、JA精米所前の道を西へ、右折して北へ、次を左折して進み、突き当りを左折して進んだ先(224号から南側、東側から狭い道がある-車でも可能だが停める場所が見当たらない)
荒神宮
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鎮座地:瀬戸内市邑久町虫明
由緒、御祭神共に不明

JA岡山裳掛前を右にカーブして進み、左折して224号を北に進む突き当りを右折し、道なりに進んだ突き当りに
皇子谷神社
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鎮座地:瀬戸内市邑久町虫明
由緒、御祭神共に不明

224号まで引き返し左折して道なりに進み港手前に邑久町漁協魚市場前に駐車場、車を停め、前方三叉路まで進み、右折して直ぐ左折し狭い道を、少し進むと左手に階段、その奥に(たまたま近くで出会った人に聞いたから、狭い道なので探すのはかなり厳しい)
鍋島神社
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鎮座地:瀬戸内市邑久町虫明
由緒、御祭神共に不明

かき資料館にあった虫明の案内板にあったが、近くで何人かに聞いたが良く分からない様子、車を取りに行き、さっきのY字路を右折して西へ、前方十字路附近に車停め、左側を見ながら南側へ進んで行く、次の繁みを見ながら進むと鳥居が見える(手前の山にあるのが前記の鍋島神社、隣の南側の山にあるのが井垣神社、昔は行ききが出来たようだが今は無理のようである)
井垣神社
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鎮座地:瀬戸内市邑久町虫明
由緒、御祭神共に不明

魚市場先を右折して進み、突き当りを左折して進み、前方十字路を右折して進むと前方に広い場所、そのままに進んだ突き当りの広めの場所に車を停め、先の階段を登って行くと、先に鳥居、更に登って行くと左手に秋葉神社、少し登った右手に祇園神社
秋葉神社
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鎮座地:瀬戸内市邑久町虫明
由緒、御祭神共に不明

祇園神社
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鎮座地:瀬戸内市邑久町虫明
由緒、御祭神共に不明
細い道を行かなくても港沿いに進み、突き当りを左折、広めの場所を右折でいいが、実際かきの作業をしていたら?

224号を東へ進んで行く、三叉路を右に進み、道なりに進むと案内標識、案内に従い左折して橋を渡り最初の三叉路を左へ、直進し、3つ目の三叉路を左へ進んで行くと鳥居(木製の結構大きな鳥居-岡山では木の鳥居は珍しい)
光明神社
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鎮座地:瀬戸内市邑久町虫明
由緒、御祭神共に不明

岡山方面の標識に従って進むと、最初のブルーラインを出た先の信号へ、224号を西へ、ブルーラインを潜り先へ進み下寺公会堂の少し先の右奥(適当な場所が見つからず少し先の路肩へ車停め歩いて-北へ進む道を登って行き、前方畑の道を右手に進むと左手に)
宗道神社
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鎮座地:瀬戸内市邑久町福谷
由緒、御祭神共に不明

虫明ICよりブルーラインで邑久ICへ、39号を南へ進み一気に牛窓へ、左折して
28号を進み、牛窓東小学校を右折、学校前を右折して、小学校、幼稚園と進み、その先の右手に
由賀神社
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鎮座地:瀬戸内市牛窓町牛窓
由緒、御祭神共に不明

28号道を挟んだ反対側
御霊神社(お御霊様)
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鎮座地:瀬戸内市牛窓町牛窓4345
由緒:本神社の創建年代は不詳。往古綾浦の御鎮座であったのを、寛文8年八幡宵宮地内に御社殿を建立して遷したと伝える。享保8年12月願い出、享保13年3月綾浦に宮屋敷を新にし、御社殿を建立して御遷座し、村内一統を氏子とし、守護神として尊崇をあつめた。神社旧記に、「往昔海中より龍王上り、此処にて夜光赫々たり。衆人是を尊崇して、綾浦の氏神同様に唱え来り候」と有り、かつては古式の祭典法、行事等が伝承されていた事からも、その旧社たるがわがる。尚、平安時代から盛んとなった御霊信仰と当社との関係も注目するに値するであろう。
明治初年村社になった。
御祭神:仁徳天皇、龍神、応神天皇

28号を東へ進んで行く、出来るだけ先に車を停め(結構車を停める処はある)、瀬戸内きらり館の裏側、火の見櫓の方向へ
天神社
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鎮座地:瀬戸内市牛窓町牛窓3224
由緒:延喜年間(約1070年前)、菅原道真公が筑紫の太宰府へ左遷せられる時この山に登らせ給い、遥かにかすむ讃岐の連峰を望まれて、かつて讃岐守であった若き日を偲び、今生の別れを告げさせられたその時、御腰を掛けさせ給うた巌の跡に道真公を祀り天満宮として尊崇する様になったと伝えている。そして御神体については現存するもの二体があり、最も古い御神体(推定500年以上)と、太宰府飛梅の神木をもって筑州福岡往、御神体彫刻師佐田文蔵が刻んだ御神体を宝暦6年(約230年前)に太宰府廟より勧請して本殿に納め祀っている。本殿・幣殿・拝殿は文政8年(約150年前)再建されて現在に至っている。本社は古来より学問の神として人々に親しまれ、入学、進学時には大願成就の祈りをこめて日参され、霊験あらたかなるを信じ社前に額づく人があとをたたない。
磯山の峰の松風通い来て 浪や引くらん唐琴の迫戸 菅原道真
御祭神:菅原道眞、少彦名大神

天神社から前方見下ろす位置に仁が見えるが参詣道がやはり入り組んだ場所にあり、北側と西側共に民家の間の路地になっている。
不明神社
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鎮座地:瀬戸内市牛窓町牛窓
由緒、御祭神共に不明

此の先車は通れそうだが停めれるかどうか分からないので歩いて参詣を続けることにし、海側の一本内側の道を進んで行くと左手に鳥居がしばらく進んで行くと参道の表示があるので階段を登って参詣する。
金刀比羅神社(金毘羅宮荒神社)
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鎮座地:瀬戸内市牛窓町牛窓2940
由緒:金刀比羅神社の鎮座する高台は、昔から城山と言われている処で、島山左馬丞が山城を構えていたとも言われている。その昔、漁業不振に加えて、海難事故が相次いだので、讃岐国金毘羅大権現に願い上げ、御分霊を勧請し、既に祀られていた荒神社(向って左の本殿、かまどの神、三宝荒神)の相殿神としてお祀りしたことが始まりである。御祭神は、大物主命(大国主命の和魂)並に、崇徳天皇で、漁業・航海・殖産安全の神として、御神徳極めて高く、霊験あらたかな神であらせる。江戸時代に至って、名主那須肋三郎(豪商奈良屋)の寄進に依り、境内及び社殿の本格的な再建が行なわれ、文政2年(1819)本殿建立、天保11年(1840)には、幣殿、拝殿の建立が成され、嘉永元年(1848)の大鳥居建立まで、約30年の歳月をかけ完成されたものと言われている。然して、明治32年、大正10年、昭和53年と数次に且り修理が繰り返され今日に至っている。殊に戦後の著しい荒廃の為、一時は廃宮とまで取り沙汰された当社が、良識ある地区民の協力に依り見事復興した昭和53年の昭和の大修理こそは、後世の範として禾く伝えられるべきであろう。又、この地は、瀬戸内海国立公園でも有り、風光明眉、眺望絶佳にして、四国の連山はもとより、遠く播磨灘の島々まで望むことができる。
御祭神:大物主神、崇徳天皇

途中左手に稲荷神社あり
最一稲荷
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鎮座地:瀬戸内市牛窓町牛窓
由緒、御祭神共に不明

更に進んで行くとまた途中に小さな赤い鳥居と祠
不明稲荷
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鎮座地:瀬戸内市牛窓町牛窓
由緒、御祭神共に不明

前の道を更に進むと左手に(この神社は目立つ、かなり早くから前方に緑の屋根が見えている)
五香宮
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鎮座地:瀬戸内市牛窓町牛窓2720
由緒:本社の主祭神たる住吉三神は、牛窓神社の神々と共に、牛窓地名起源説話にて御活躍の神々である。即ち牛窓神社の項と重複するも、備前国風土記逸文に次の如き記述が有り、牛窓地名の由来(備前國風土記逸文)神功皇后のみ舟、備前の海上を過ぎたまひし時、大きなる牛あり、出でてみ舟を覆さむとしき。住吉の明神、老翁と化りて、其の角を以ちて投げ倒したまひき。故に其の處を名づけて牛輔と日ひき。今、牛窓と云ふは訛れるなり。即ち「神功皇后西国御遠征の砌、牛窓沖にて牛鬼の難に逢われ、危うき処を住吉大明神に救われた事がうかがわれる」のであり、茲に五香宮の鎮座の淵源が有る。五香宮古記録に依れば、「神功皇后は、住吉大明神の御加護に感謝、此の地に古くから住吉宮の存する事を聞こし召されて牛窓の浦に上陸なされ、自ら親しく住吉宮へ御参拝され、武運長久、航海安全、安産祈願(御懐妊中)等を御祈願なされた。そして御神前にて御腹帯を召され、御鎧を付けられた上で西国に御出発され、瀬戸内各地に御事蹟を残されながら、西国との和平を実現。御帰還の途次、再度牛窓の浦に上陸、家来の武内宿禰ともども、住吉宮に御参拝になり、戦勝に感謝、品陀別尊の無事出産を御報告なさり、神恩に報いる為に、御自ら御着用の御鎧一領、御冑、御太刀、御腹帯、御馬具等を御奉納なされたと言う」正に赫々たる古事来歴を持つ、備前国有数の古社である。しかしながら、牛窓神社と同じく弘治元年(1555)の芸州の乱にて、海賊多数蜂起して、牛窓の浦に来襲、住吉宮もその災いに逢い、神功皇后ゆかりの御神宝は幸いに難をまぬがれるも、古記録、棟札等は焼失したと言われる。下って江戸時代寛文6年7月、藩主池田光政公は牛窓神社に参拝され、その時に往吉宮の造営の由を仰せ出だされ、社殿が再建されるや、寛文7年8月、京都伏見の御香言から改めて、神功皇后と応神天皇の御神霊を勧請せしめて、往吉宮を五香宮と改称するべく命じられたのである。それ以来、五香宮は池田家の守護神とし朝野の崇敬を集め、延宝8年には綱政公が瑞垣並に鳥居を、継政公は直筆の繋馬の扁額を奉納され、以来、社殿や玉垣の修復は池田家によって行なわれる事となったのである。又、一般には、武神として、航海安全神として、安産神として尊崇され、殊に戦前に於いては、武運長久を祈る人々が連日県下各地より多数参拝し、生めよ増やせよの世相ゆえに、安産祈願の参拝者も又多数参拝祈願に訪れたのである。かくして今も尚五香言は歴史と伝統を静かに秘めて、流れの速き唐琴の瀬戸を眼下に臨む高台に鎮まっておられるのであり、歴史を訪ねての参拝者が絶える事はない。現存の社殿は、大正七年の大造営にかかる神明造り銅板葺きである。
御祭神:住吉大神、神功皇后、応神天皇、上筒男命、中筒男命、底筒男命

この神社は地図上では良く分からなかったが、五香宮で猫に餌をやっている人に尋ねると、直ぐ下に見える燈台の海側にあるとのこと、助かった
恵美須宮
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鎮座地:瀬戸内市牛窓町牛窓2583
由緒:唐琴の瀬戸に鎮座する当社は、古くから瀬戸神社、戎宮、瀬戸恵比須と称せられ、漁家や商家に尊崇されて来た。 神社旧記に依ると、「元来五香宮境内の南端に鎮座して、2尺四方の小祠であったが、降雨の為に岸が崩れ落ち、祠が危険となったので、宝暦4年10月18日に、これが移転の奉願状をその筋に差し出して許可を得、恵比須講の掛銀200目を基金として、現在地に遷宮奉祀した」と有る。往昔は、商家は正月に相寄って恵比須講を催し、特に漁家の信仰は厚く、毎年9月10日(旧暦)の祭礼には、挙ってこの宮に参集して大漁を祈願した。万治年中の餓網記録に依ると、最初の網下しに盛大な恵比須祭を催して船行列を行なったのが餓網祭の初見で、その後も餓網の年中行事として、境内を町民に開放して草芝居漁芝居(三番叟を踏む)などを催し、大魚を神に感謝並に祈願する春先、4月の祭事が、昭和の中葉戦前まで極めて盛大に行なわれたのである。
御祭神:事代主命
燈台にも赤い鳥居のお稲荷さんが

28号を引き返し、226号を右折し進み、左にカーブする手前を右折し進み、左折して坂道を登ぼろうとするが道が狭く崩れかかっている。近くにいた人の私有地に停めさせてもらう。(カーブする辺りに車を停め歩いた方が絶対無難-何回か溝に落ちながら何とか引き返す)
祇園神社
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鎮座地:瀬戸内市牛窓町牛窓
由緒:その昔、地元の大浦地区に児童の疱瘡の病が流行した時、京都の八坂神社より御神体を迎えて事なきを得た。以来毎年七月中旬には、祇園祭が賑やかに行われ、子供達が手作りの五色旗を奉納する習わしであった。
御祭神:素盞嗚命

左折した処まで引き返し、三叉路を左側へ突き当りを右折して海方向へ進むと鳥居、中程へも行けるようである。
元の道を引き返し、レストラン新月前の道右折し北へ、隧道手前を左折し、廻り込み隧道の上へ奥手前に駐車場がある
牛窓神社
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鎮座地:瀬戸内市牛窓町牛窓2147
由緒:当社は原初の頃は、土地の神霊及び氏の祖先の神霊をまつっており、牛窓明神と呼ばれていたが、長和年間、教円大徳によって豊前(大分県)の宇佐八幡宮から応神天皇・神功皇后・武内宿禰命・比賣大神の御神霊をお迎えして牛窓八幡宮となり、明治6年郷社に列せられ牛窓神社と改称した。社伝によれば、鎌倉・室町時代の山城国男山八幡宮(石清水八幡宮)の古文書に「牛窓別宮」の名があり、当時牛窓が石清水領であったと共に社格が大変高かったようである。神階は従三位、式外社、備前国古社128社の内の1社にして明治6年郷社に、明治42年神饌幣帛料供進神社に、昭和15年県社に、それぞれに列せられたが、終戦と共に社格は廃止された。弘治元年(1555)芸州の乱の時、海賊の焼打ちに遭い、全山を焼失し、社殿、宝物、記録等全てを失った。当時、牛窓は内海帆船時代であり、交通運輸の重要港に成長し、藩の政治、住民の経済力の増加を背景に、神社に対する信仰心も高まった。江戸時代、特に寛政、文化の頃から境内を拡大し、社容を整えた。特に本殿は近世の社寺建築の粋を凝らしたもので、牛窓町の重要文化財に指定されている。尚、当社の例祭は、毎年10月第4日曜日に行われ、神輿やダンジリの巡幸など港町の風情溢れる祭り絵巻が終日堪能できる。
御祭神:応神天皇、神功皇后、比賣大神、武内宿禰命
境内で神主さんらしき人に出会う、下の展望台があり是非と言われる。昔海岸からかなり長い階段を登っただけの気がしていたが、今は途中の展望台、上からの参詣、展望台も車でと楽になっている感じ。

神社の駐車場入口近くの角にやはり赤い鳥居がある。
不明神社
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鎮座地:瀬戸内市牛窓町牛窓
由緒、御祭神共に不明

牛窓の港辺りをずっと歩いて参詣したためか結構な時間を取られ、予定の西の方の神社を残すことになった。前回の天気といい思い通りには行かない。

神社廻り-倉敷南方面他

兄が再度抗がん剤治療のため入院、特に変化は無く副作用の大したことは無いようだが様子見に川崎医科大学付属病院へ見舞いに行くついでに、南西方向を中心に神社廻り
西方向を目指す基本パターン新幹線沿いの242号から、151号で庭瀬駅方向へ、駅の西側を通って南へ、途中昔近所にあったケーキ屋さんがあったが今日は定休日、足守川を渡って南へ、前方三叉路を右折して進むと途中に階段と鳥居、車を停めて参拝する。(そのまま進んで行き、V字に進むと神社側-151号バイパス北、山田公会堂前の道と出会う)
伍社神社
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鎮座地:岡山市南区山田1148
由緒:承保年中(1074〜77)に、天照大神を土地の守護神として奉斎した。明治4年5月村社に列格した。
御祭神:天照大神、大吉備津彦命、市杵島比売命、須佐之男命、誉田別命

病院には兄嫁がいる可能性が高い12時頃に行く予定なので時間が少しあり、前に行っているが庭瀬城跡附近にある神社を再度参詣、しかし季節柄一番地味な季節か?162号(旧2号線)を通り川崎医科大学付属病院に寄り見舞いを済ませ、162号の2つ先の信号を右折して187号にてバイパスへ、2号線バイパス加須山信号を北へ、バイパスの側道を西へ74号南へバイパスの手前を右折、西に進むと右手に、階段脇の坂道を登ると裏にかなり広い駐車場が
一王子神社
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鎮座地:倉敷市二日市449
由緒:当社は福山寺の守護神として祀られたのが創祀である。古来、この一帯は吉備の穴海と称され、瀬戸内海が深く湾入した多島海域で、源平の屋島合戦の前にあった藤戸合戦(1184)は謡曲にも謳われている程で、その遺跡は周辺に点在し、現在の平地は当時殆ど海で、海岸は北方2キロメートルの福山(標高300メートル)の南麓であった。この福山は山陽道を眼下に、瀬戸の島々を見晴るかす要地で、古く平安時代から信仰の山とされ、山岳仏教の12坊を持つ大寺「福山寺」が建立された。延元元年(1336)足利氏の北上にあたり、南朝に組みして尊氏の弟、直義と対戦し、地元の土豪大江田氏経と共に戦ったが、諸社寺その福山合戦に於いて全て焼失した。
御祭神:五十猛命

神社前の道を北に進むと前方左手に妙忍寺が見えるので左折して寺正面に、車を路肩に停めお寺の南側を
妙見宮(妙忍寺)
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鎮座地:倉敷市羽島85
由緒、御祭神共に不明

お寺の裏側に神社があるが道が無いようである(竹藪で遮られる)
一王子神社(妙忍寺)の東の道北上、道幅が狭く車を停めれないので前方天神窯の先の三叉路手前の空き地に車を停め、岡本畳店まで引き返し、坂道を登って行くと右手に、車でも可能だがやはり駐車スペースに問題がある。
八幡神社
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鎮座地:倉敷市羽島
由緒、御祭神共に不明

車を停めた先の大きなクスノキの下に祠
不明祠
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鎮座地:倉敷市羽島
由緒、御祭神共に不明

元へ引き返し74号を2号線バイパスより南へ、前方右折して273号へ、直進し前方小さな川の手前の十字路を右折、次のT字路を左折して進むと左手に(手前に空地あり-南側に参道があり、神社裏まで車で可能)
木野山神社
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鎮座地:倉敷市加須山825
由緒:明治初年(一八七五年頃)西日本各地にコレラ・疫病が大流行し、悲惨事が続発しこの業病から免れんと窪屋郡加須山村を中心に近郷住民一五〇九名世話方一四八名連名の上、明治十二年五月第六十一代村上天皇 天歴九年(九五五年)上房郡津川村今津に創設され疫病にご霊験あらたかな木野山神社に分霊を請願し、明治十三年当地加須山八二五番地に遥望所を建て祭祀したのち明治二十九年本殿を建築、昭和九年本殿焼失後、昭和九年再築せしものなり
御祭神:大山祓尊、豊玉彦ノ命、大己貴命

前の道を西へ進み273号へ、前方T字路を右折して左カーブしながら道なりに進むとY字路、V字型に右折して北に進み突き当りを左折して進み、突き当りを右折し2本目の道を右折して進んだ奥、右に曲がった坂道の途中にあり、行き止まりになるので坂道手前に車を止めないとバックでの坂道になり大変、神社は何だか新興住宅用の新規な作り?
庚申神社
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鎮座地:倉敷市倉敷ハイツ7
由緒、御祭神共に不明

273号へ戻り西へ進み『小瀬戸』、『八軒屋北』と進み金光薬品の先、スタンドの手前を右折、4本目の道を左折して進んで行くと右手に
住吉神社
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鎮座地:倉敷市新田2848
由緒、御祭神共に不明

神社前の道を進み、十字路を左折して進み、前方左手に夜間急患』センターの表示、左折して進み、前方Y字路を右折して進むと前方に
保食神社
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鎮座地:倉敷市粒浦八軒屋601
由緒:創建は承応2年(1653年)12月、当神社は五穀守護神であって、水をせき止めた開墾地にこの神を奉斎した。明治11年5月4日存置許可があって今日に至っている。
御祭神:保食神

神社前の道を東へ進み、22号を越えた先の三叉路の角に
不明神社
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鎮座地:倉敷市有城
由緒、御祭神共に不明

神社前の道を川沿いに南へ進んで行くと左手に
大己貴神社
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鎮座地:倉敷市粒浦
由緒、御祭神共に不明

神社前を南へ進み、前方交差点を右折して進むと22号へ、左折して南へ橋を渡った先『粒江小東』信号を右折して275号を西へ進み、前方T字路を左折して進むと左手に
天津神社
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鎮座地:倉敷市粒江1774
由緒:寛永十六年(1639年)の創建と伝えられる
御祭神:天之御中主神

元へ戻り275号を西へ進み、前方十字路を左折して道なりに進み、前方三叉路手前の空き地に車を停め、三叉路を右折次を右折して坂道を登って行くと右手に鳥居
荒神社
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鎮座地:倉敷市黒石694
由緒:当神社は応永5年(1398年)、地方民が小祠を建て、崇敬していたのを、氏神として祭り、次第に社殿を整備した。正徳4年(1714年)・文化10年(1813年)に改築した。
御祭神:素盞嗚尊

時間的には余裕があるが、前から気になっていた倉敷のパソコンスクールへ顔を出すので今日はここまで、この先の予定は南へ行き過ぎ帰宅するには倉敷経由で無い方が良いため

神社廻り-西大寺方面吉井川東岸

天気はあまり良くないが暖かいので昼頃から西大寺の東側(吉井川の東岸)を目指す。
2号線岡山バイパスからブルーラインへ、神崎インターで降り、28号で南へ千町川を渡って左折して231号を東方向へ、、右手の『円定寺資料館』の近くへ車を停め、先にある橋を渡り山際に進んで行き、先を右折して進んで行くと右手奥に(東側から廻り込む)
荒神宮
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鎮座地:岡山市東区長沼
由緒、御祭神共に不明

231号を東へ進み、左手に見える『長沼ふれあい会館』に車を停め、前の公園から参詣する。
豊原南嶋神社
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鎮座地:岡山市東区長沼1474
由緒:本神社は「備前式社考」には「従五位上豊原南嶋大明神」。山本氏本には「従五位上豊原南嶋明神」とある。備前国古社128社の一である。明治42年5月、境外末社円定寺素盞嗚神社、荒神社、寺前伊勢宮、八柱神社、岩神、松殿神社、中姓寺荒神社、東谷荒神社、田原神社を合祀した。備陽国誌に「當社は浦上遠江守宗景より社頷百石寄付、金吾中納言秀秋の時、社領悉く没収。池田輝政の御時、社頒七斗御寄付有之」とある。社記略に「天文14年(1545年)宇喜多直家、砥石城を攻むる時、兵火にかかり記録等すべて失ひし云々」とあるが、創立年は不詳である。
御祭神:豊原南島神
元はかなり広かったのか公園の西端に鳥居と、石組の跡が

231号を東に進んで行き、前方を左折して橋を渡り、左折して進んで行くと前方右手に小さな鳥居が見える。
荒神社
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鎮座地:瀬戸内市邑久町北島
由緒、御祭神共に不明
砥石城攻防戦の跡に建てられた神社か?

東方向へ引き返し、先ほど左折した手前を左折して北へ進みブルーラインを潜り、前方を左折し、突き当り附近に車を停め、左折し歩いて南へ進むと右手に神社が見える(やはり車を手前に停めて正解-車は通行の邪魔)
天神社
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鎮座地:瀬戸内市邑久町大窪212
由緒:創建年月日・由緒等は不詳であるが、天文御帳に天神社とある古社である。
御祭神:少彦名命、菅原神

車で左折した処まで引き返し北へ進むと左手に神社が
大窪八幡宮
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鎮座地:瀬戸内市邑久町大窪418
由緒:本神社の創建年月日・由緒等は不詳であるが、もと大ケ島村阿智山にあり、阿智本八幡宮と奉称した。仁平3癸酉年(1153年)9月現在地に奉遷した。享保の頃(1720年頃)、八幡宮と改称した。池田家から社領三石五斗七升の寄進が明治3年までつづいた
御祭神:仲哀天皇、応神天皇、神功皇后
実際は231号まで進み北上、左手長田医院先の道を左折して、本来の道へ出ようとして狭い道四苦八苦、もう少し先の224号で左折し、小さな川の信号で左折すれば問題なかった

224号を左にカーブして北へ進みハローズ邑久店先の小さな用水を右折し進んで行くと右手に、路肩に車を停め、西川から廻り込んで参詣する。東側へ廻り込んだ方が参道か
百枝八幡宮
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鎮座地:瀬戸内市邑久町尾張398
由緒:当社の現在の宮地は、大古邑久郡の中部一帯が海であった時、小高い砂地であり海の中の浮地であった。その中に1本の松が挺然屹立し、その浜辺に打寄す白波は日の出を受け、月光麗朗影を描き黄金色をなし、瀬戸内を航海するものの霊場として、海上安全の神・尾張連の祖、高倉下命を祀った。当時、瀬戸内海交通最大の障害は霧であった。その霧を払うために祀られていたと想像される。現在の百枝八幡宮が尾張の総氏神として鎮座されたのは、宝亀2年(772)に高砂山系の早稲田の里、休所(現在の山手半田)に鎮座されていた正五位下稲戸明神から奉遷された。古文書によると、当時はその老木の枝が百枝もあることから「金海百枝松八幡宮」と称されていた。
御祭神:仲哀天皇、応神天皇、神功皇后
鳥居の大きさに比べ前が狭いのは、元は参道(馬場)であったが邑久高校運動場に提供したためのよう。

車を停めた処を用水沿いに東へ進めばいいのだが工事中で前面通行止め、しかたないので右折して南へ、次の道を左折して進み用水の先の道を左折して進むと右手奥に赤い鳥居が見える。路肩に車を停め歩いて目指すが、私有地で鍵がかかっていて無理、何とか隙間を通り参詣(南側から廻り込む必要あり)
城稲荷神社
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鎮座地:瀬戸内市邑久町尾張
由緒、御祭神共に不明
尾治城跡に建てられた神社か?

北へ進むと224号『尾張』信号、横切って北へ、邑久幼稚園先を右折、この辺りが道幅ひろいので車を停め、歩いて突き当りを左折、最初の道を右折して進むと前方左手に神社が、(ここに車を停めるべき路肩あり)細い道を北へ進んで行く
品治神社
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鎮座地:瀬戸内市邑久町山田庄
由緒、御祭神共に不明

東に進み、突き当りを左折して進み、前方十字路を左折して進むと入口の表示、道なりに進むと北側の駐車場に、桜、梅、椿が植えられた公園があり、赤い椿と黄色い椿が左右に分けて植えられているが黄色は時期を逸したか?駐車場は非常に広い
貴船神社
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鎮座地:瀬戸内市邑久町山田庄1366
由緒:当社の創立年月は不詳であるが、山城国愛宕郡(現在の京都市左京区)官幣中社貴船神社の御分霊を旧山手村早稲田休所(現在の山手、半田の小高い所)に奉斎した。従5位上稲都神社の縁起によると、貴船大明神は(後に貴船神社と改号)宝亀2年9月(771)5町ほど西方の貴船山に奉斎し、神主守安仁左衛門奉仕すとある。その後、才名山(さいなさん)、円通寺、別当職をもって奉仕する。(才名は小物屋付近に小字としてあり、別当の字が貴船山の麓にある)当時この付近は尾張の保と称していたが、慶長元年3月(1596)尾張村、山手村、山田庄村と3ヶ村に分村し、享保年間(1716)に藩主池田光政の命により神職大森丹後守正豊が奉仕、藩主崇敬により社領3石3斗が明治3年まで奉納された。現在は山田庄の総氏神として、また、水の神様として広く信仰を集めている。
御祭神:高オカミ神

元の道へ戻り東方向へ、突き当りを左折し直ぐに右折、岩屋山展望台の標識に従い進んで行く、途中U字カーブに直進道は通らないで進むと右手に
祇園宮
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鎮座地:瀬戸内市邑久町山手
由緒、御祭神共に不明
麓からの道もありそうだが今回特に調べず

更に進んで行くと、U字カーブ手前の左手に
加茂神社
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鎮座地:瀬戸内市邑久町山手
由緒、御祭神共に不明

更に進んで行くと、U字カーブ手前の左手に、この道を突き当り迄行くと『岩屋山展望台』に行きつく
大垣八幡宮
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鎮座地:瀬戸内市邑久町山手1679
由緒:創立年月は不詳であるが古老の口碑によると、旧山手村早稲田休所付近(現在の山手半田の小高き所)に鎮座せし従五位上稲都神社を、宝亀2年(771年)9月に五か所に御分社の時、稲都神社を重高大垣八幡宮と御改号、高砂山に奉遷した。これが即ち現在の山手八幡宮である。昔は社領畑高五十三石五斗八升、折紙にて神主吉田大和守森直拝納す。往古この付近一帯を尾張の保と唱え、慶長元年(1596年)に分村し、尾張・山手・山田庄の三か村となる。明治元年八幡宮と御改号、社領石高二石四斗五合。明治4年まで池田家より奉納があった。
御祭神:仲哀天皇、応神天皇、神功皇后
麓までは降りなかったが広めの参道が付いているようである。

元の入口まで引き返し、南へ進み信号のある十字路を左折し、突き当りを右折してU字を描きながら集落の外側を道なりに進んで行くと、前方右手に『真徳』の標識、近くに車を停め山方向を探す。坂道を登って行っていると地区の人に出会ったので聞いてみると親切に分かりやすい処まで案内してくれる。坂道を登って行き突き当りを右折して進むと広い場所に(ここに車を停めれる)その端に山に登って行く道があるので進むと神社に(少し進み2つ目の道を左折して道なりに山を登って行くと神社の横へ-墓地へ行く道のようで非常に遠回り)
阿字八幡宮
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鎮座地:瀬戸内市邑久町山手1026
由緒:当社は式外の古社で、創立年月日は不詳である。古老の口碑では、旧山手村、早稲田休所、早稲田付近(現在の山手半田の小高きところ)に鎮座していた従五位上稲都神社の縁記によると宝亀2年(771年)9月五箇所に御分社の時、東、八町、卯の方、真徳八幡山の麓に王金明徳阿字八幡を奉還す、とありその後八幡宮と御改号され現在地に鎮座されている。御内陣裏に阿字八幡大菩薩、社僧、真徳山、明王院と記されている。
御祭神:仲哀天皇、応神天皇、神功皇后

更に進んで行き、前方Y字路を右折した先の山側にあるようだが、道が狭く車停めれないので少し先のカーブ手前の広い空き地に停車し、歩いて引き返していくと右手に登って行く道が見る
疫神社
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鎮座地:瀬戸内市邑久町本庄
由緒、御祭神共に不明

今日は出発が遅かったのと前半曇りだったので良くなかった。少し南東に進むが邑久インターからブルーライン経由で帰宅

神社廻り-水島方面2と下津井方面

2号線を西へ高梁川手前の『大西』信号を左折しR429号を進んで行くと前方左手に神社が見える。先の道を左手に降りて直ぐ左折した辺りで車を停め道を探すがまるで分からないやっと出会った人に聞くと、この道を進み橋を渡って引き返すとのこと、しかし橋は工事中、その先の橋は狭すぎて車の通行は?ずっと先の橋を渡り西方向へ引き返す、神社前に駐車場はあるが、神社手前の道が狭い、引き返して429号を進む(帰って地図を見ると降りた辺りの車停め、前方に歩いて進み、橋を渡り行くのも手か?)ここで会った近所の人が話し好きで、次の予定があるので慌てる。親鸞に関係する神社らしいが詳細は不明、と引き返すしかないとのこと、橋まで引き返し左折して進むとR429号
七面大明神
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鎮座地:倉敷市連島町西之浦
由緒、御祭神共に不明

R429号を進み、前方左に降りる道を進み、先を左折して小さな橋を渡り道なりに進むと正面に、参詣は東側から、早めに西側の430号へ出る
嚴島神社
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鎮座地:倉敷市連島町西之浦
由緒、御祭神共に不明

R430号を南へ、右折が430号、左が428号、真ん中の川沿いの道を進み、嘉永橋信号の先を右折して西方向を目指すと前方に
猿田毘古神社
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鎮座地:倉敷市連島町西之浦667-8
由緒、御祭神共に不明

少し引き返し、川沿いに南へ進み信号を右折し進み前方にある信号を左折して進むと右手に
寅崎神社
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鎮座地:倉敷市連島町鶴新田664
由緒:創建は文化元年(1804年)10月23日である。鶴新田開発の際、祖神として本町矢柄八幡神社の御分霊を奉祀した。八幡神社は寅の方角に当たるので、寅崎八幡宮と称したが、明治7年神社取調の際から寅崎神社と改称し、同32年村社に列格した。
御祭神:仲哀天皇、応神天皇、神功皇后、帶中津彦命、帶中津姫命、品田別命

前の道を南東へ進み『鶴新田中信号』を右折し道なりに進んで行くと7&11の処で398号へ出るので横切って道なりに進むと430号、横切った先の右折した先の左手
地神社
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鎮座地:倉敷市連島町鶴新田
由緒、御祭神共に不明

R430号を南へJFE北門手前の左手に
海神社
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鎮座地:倉敷市連島町鶴新田
由緒、御祭神共に不明

R430号を東へ、亀島橋を左折して進み、前方亀島信号を左折して少し進み、左手に登る道があるが車止め、歩いて登って行くと右手に、前方にも車止めがあるが向うには車が停めてあるので途中の左手に『亀島山花と緑の公園』左折して公園内を行けばいいのか(車止めと一方通行注意が必要)
福喜神社
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鎮座地:倉敷市亀島1丁目2
由緒、御祭神共に不明
西方向へ、そして南方向へ進み430号へ

R430号を東へ、ネッツ先の信号を右折少し先『丸口重機』先を左折して進み、三叉路を右手にとり進み小さな川の左折して(右手郵便局)進むと左手に神社
素盞鳴神社
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鎮座地:倉敷市南畝5丁目2−15
由緒、御祭神共に不明

素盞鳴神社の川をはさんだ東側に
中畝神社
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鎮座地:倉敷市中畝6丁目1−7
由緒、御祭神共に不明
前方へ進むと左折しか出来ないので元の道(郵便局)まで引き返し、東へ進み直ぐ左折すると430号へ

R430号を東へ、『東塚一丁目』信号手前を左折、北へ進んで行くと左手に
由加神社
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鎮座地:倉敷市東塚3丁目18−41
由緒、御祭神共に不明

神社前を北方向へ進むと428号東塚5丁目信号へ、東方向、池に沿って南東へ進み、『樋の輪』信号で左折した辺りへ車を停め、歩いて前方高台を
白城神社
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鎮座地:倉敷市広江2丁目2
由緒、御祭神共に不明

元へ戻り428号を南へ進んで行くと広江一丁目信号へ、左折して62号を東へ進んで行くと広江六丁目を右折して進んで行くと前方に空きスペースと左手に道と『天石門別保布羅神社』の案内、坂道を登って行くと前方に鳥居、少し先に駐車スペース
天石門別保布羅神社
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鎮座地:倉敷市福田町広江726
由緒:創建は天承元年(1131年)であるが、大永年中(1521〜28年)火災のため古文書を失った。元広江矢の鼻と云う地に氏神として建立せられ、建長年間(1249〜56年)に現在地に奉遷した。承久の乱に頼仁親王が児島に流遷せられ、玉島で妃がご出産ののち逝去せられ、此地に御在住になった親王は氏神である当神社に祈願せられた。もと福田町内の五か村の氏神であったが、近時は大氏子と称するに至っている。
御祭神:天手力雄命

430号まで引き返し南へ、真言保育園手前を左折した処に空地、、車を停め歩いて参詣(距離が短いのでこのコースが-430号の先を左手Vの道を山際に北へ進むより楽か)
呼松八幡神社
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鎮座地:倉敷市呼松2丁目4-10
由緒:嘉暦元年(1326年)8月15日の創建と伝えられ、毎年正月元旦払暁、氏子が多数参籠し、この故事を謡い、古式行事を行い、その年の安全と氏子の繁栄を祈った。これを早奏と呼び當神社の特殊神事である。創建以来670年余となり、旧福田地区に於いて最も古い神社と言われている。水島地区の発展に伴い八幡神社を尊崇する人たちが増えている。
御祭神:応神天皇、仲哀天皇、神功皇后

南へ進んでホームプラザナフコの先『王子ケ岳』の標識で左折し少し進むと広めの路肩へ車を停め、左手山際を目指すが小さな川に阻まれ、少し引き返し山際を目指す
荒神神社
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鎮座地:倉敷市児島宇野津
由緒、御祭神共に不明

R430号へ引き返し、南へ進むとバス停、直ぐ先を左折すると空地、車を停め左手山際を探す(地図上では430号に近いが実際はかなり北東方向から廻り込む必要があり、先ほど車を停めた処から行った方が良かった、また一ヶ所狭い処があるが車で神社前まで可能)
住吉神社
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鎮座地:倉敷市児島宇野津
由緒、御祭神共に不明

R430号を南へ進み、左手にホテル瀬戸大橋の先を右折して進むと右手に、神社横に駐車スペースあり
荒神宮
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鎮座地:倉敷市児島塩生
由緒、御祭神共に不明

少し北方向へ歩くと西方向の山側に長い参詣道
天神宮
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鎮座地:倉敷市児島塩生
由緒、御祭神共に不明

R430号を進み『高島口・倉敷シーサイドホテル』信号を右折して進み、突き当りを右折して進み、墓地近く広めの路肩へ車を停め左手山方向を探す(運よく農作業の人に出会うので聞くと丁寧に教えてくれる-大体の位置は水島信号所の塔があるので分かりやすいが道が問題-コンクリートで舗装された道を登って行くと前方未舗装の広い道を右折して登って行く)
産土荒神社
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鎮座地:倉敷市児島塩生
由緒、御祭神共に不明

『高島口』へ引き返し、430号を横切り東へ進み、『本荘小』東側を目指す(突き当りを右折して進み、次を左折して進み突き当りを右折、次を右折して進むと左手に-前の道は広く駐車可能)
塩生神社
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鎮座地:倉敷市児島塩生
由緒、御祭神共に不明

小学校前に道を進み、先を右折して進むと430号へ、南へ進み『通生浜』信号を右折直進し、突き当りを右折し港沿いに進んだ先、道なりに進むと神社前(港の一本奥の通りが参詣口で大きな鳥居がある)
本荘八幡宮
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鎮座地:倉敷市児島通生22
由緒:当社は大宝元年(701年)豊前国宇佐ノ宮よりの勧請と伝える。古来通生庄12ケ村の総鎮守として神宮寺の社僧が奉仕した。神宮寺般若院の旧記によれば、延暦23年(804年)坂上田村麿将軍が勅命によって喩伽山の賊徒を討ち、平定の報賽として神封150戸を寄せ、その後建治2年(1276年)新熊野山神領の分与が行われ(尊瀧院文書)、弘安2年(1279年)社頭80石の朱印状を受けた。室町時代の初め応永28年(1421年)、塩生の住人松井紀ノ義泰が石鳥居を奉納し、永享7年(1435年)より祭礼日を市日と定めて市を開いた。当日は馬場に於て流鏑馬も行われたので、近郷からの参拝者や商人で賑った。常山城主の三村上野介高徳は深く当社を信仰して奉幣を怠らず、弘治3年(1555年)木鳥居2基に名前を刻んで建立した。天正3年(1575年)當山合戦の前哨戦として通生の湊山城が吉川、小早川両軍の攻撃を受けて落城し、その戦火により八幡宮の社殿と神宮寺の堂塔は悉く炎上して烏有に帰したが、その年の末から同5年の間に全社殿再建復興された。慶長10年(1605年)下津井城主池田河内守長政が社頭25石を寄進し、以後歴代の岡山藩主もこれに則ったが、寛文6年(1666年)の神佛引き分けによって社領15石、寺領10石となり初めて祠官が任ぜられた。明治7
年(1874年)郷社に列せられ、昭和27年宗教法人になった。
御祭神:品陀別命、足仲彦命、息長帶姫命
中学生2人に聞くが神社はよく知っているようだが鳥居に関しては知らないよう

元の430号へ引き返し南へ進んで行くが予定したコースの処で脇道に入らず進んでしまう。時間も遅いので近辺の神社を巡り本日の予定とする。
430号を東に進み右手へ入り赤崎幼稚園前の駐車場に車を停め、歩いて山際を探す(幼稚園西の道を南方向へ進み最初の道を左折して進んで行くと南方向へ登る畑道を登って行くと右手に-最初金光教教会の裏に階段が見え、位置的にあっていたので進んで行くが道が無くなり強引に畑の中を進む-近くの人に詳しく聞くべきだったか?-二つ祠があり一つは飛び八幡と呼ばれ『新庄八幡宮』を分社したようである)
素戔鳴神社
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鎮座地:倉敷市児島赤崎2丁目6-10
由緒、御祭神共に不明

曇って来て時々雨も降る天気になったので余計に方向も分からなくなっているのか。少し引き返し、『菰池中央』信号(前方高架の手前)を右折、次の信号を左折して進み池の先の三叉路を右折して広めの場所へ車を停め、歩いて東から廻り込んで神社を目指す
三寶荒神社
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鎮座地:倉敷市菰池3丁目5
由緒、御祭神共に不明

先ほど右折した21号まで引き返し、東へ進み『清楽寺』信号を左折し、前方左にカーブした左手奥に(路肩に車停め)
太宰天神社
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鎮座地:倉敷市児島赤崎3丁目4
由緒、御祭神共に不明
神社跡か墓地の上にあり、南麓に参詣道らしき感じもするが、やはり墓地の入口に見えないことも無い。

どうも一日の最後は方向感が鈍っている。太陽が見えないと余計に駄目になる傾向は変わらず。車のカーナビで帰宅するが、コースが西寄り2号線経由なので途中で62号-21号経由で帰る事にするが、試しに再度カーナビに従うがとんでもないコース30号線経由で帰宅するはめに。距離はともかく時間的にはどうだったのか?

神社廻り-後楽園内神社と近郊の神社

今日は天気も良さそう!後楽園の中にある神社を訪ねることにする。Googleのストリートビューで見るとまだ鳥居がほかにもありそうである。後楽園もシニア料金は160円なので久しぶりの後楽園へ。また、最近前の建物が取り壊され『岡山城西丸西手櫓』が見やすくなったとのことなので、この場所から、烏城、後楽園と久方ぶりの市内名所観光を行う。
最初に烏城にいった関係で観光ボランティアの人と話す。彼女が言うには単なる景観として誰かが置いたのでは?、けったいな話。また、後楽園での観光案内の人もまるで知らない様子、仕方ないので入口の観光案内へ、ここで入園券のチェックの人が、後楽園の案内図の旧版では記載があるとのことで、自分の個人用資料なのでコピーを頂いき、由緒を記載した一部も見せてもらえたがあまり重要と思われるものではないようだ。
後楽園、園内の六鎮守として由加神社、その隣に西の稲荷宮、東の稲荷宮、弁財天堂、四天王堂、地蔵堂であり、鳥居は由加神社、東の稲荷宮、弁財天堂、地蔵堂にあるようで、今回久しぶりに隅々まで歩いた。
後楽園内の六鎮守
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鎮座地:岡山市北区後楽園
由緒、御祭神共に不明

一旦家に帰り、家近く?の参詣がまだな神社を訪ねる
旧53号線(岡山街道)を走り笹ケ瀬の信号を左折し、川沿いに北へ進み山陽自動車道への出入口の北、自動車道の手前で川の西側で左折、直ぐ先を右折、左折して進み突き当り、団地の北角に
白山神社
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鎮座地:岡山市北区富原2777-11
由緒、御祭神に関しては境内に掲示されている
由緒:白山神社は約二百八十年前に建設され御神体は邪那伎命、伊邪那美命、菊理姫命をお祀りされている。現在使用されている太鼓にも、寛政元己酉年(一七八九年)大阪で購入と明記されている。白山神社の御本営は石川県石川郡鶴来町三宮の白山比咩神社である。比咩神社は遠く神代の昔、霊峰白山の御神体として、行きとし生けるもののいのちの親神と仰ぐ白山比咩の大神を奉斉したことに始まり、縁結び安産そして子供の成長を守る神様、また病の神様として信心されている。現在の白山神社は、高速道岡山インター所在地の山中にあったが、大東亜戦争敗戦(昭和二十年)で進駐して来た外国軍人により破壊され祠のみを、昭和二十四年現在地下方の杉ノ木の場所に移したが、老朽のため平成五年新築移転したものである。
御祭神:伊邪那伎命、伊邪那美命、菊理姫命

北東に進み53号に出て北上、金山方面へ右折して386号を道なりに進み、免許センター方向の先にある三叉路を右手を進み、更にその先の三叉路を右手に進んで行くと前方左手に
高野八幡宮
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鎮座地:岡山市北区高野1653
由緒、御祭神共に不明

のんびりとした一日であった!

ギャラリー
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