天気はあまり良くないが、さすがに2月も終わり余り寒くないので昼前だが出かける。近場は残ってないのでどうしても遠くになるが今回は、虫明から以前の牛窓方面の未参詣神社を
ブルーラインから虫明ICで降り、224号を東へ、信号の手前、路肩に車停め、左手裳掛小のグランド奥にある神社を目指す。
裳掛八幡宮(正八幡宮)
由緒:宝亀年中(770〜780年)大隅国から正八幡宮勧請(大隅正八幡宮旧官幣大社鹿児島神宮にゆかりあるかと勘案す)「弘安9年(1286年)11月吉日、奉再興八幡宮」「慶長10年(1606年)10月13日、八幡宮奉造立」「元禄5壬申(1692年)9月、八幡宮拝殿一宇、伊木清兵衛忠親修造焉」「大正4年10月吉日、奉棟上、天御中主神罔象女神、五王龍神宮、造営吉洋、工匠井上松次敬自」等の棟札有りしと伝う。岡山藩主池田家筆頭国家老、伊木氏(三萬三千石)の知行所であった。伊木氏の崇敬篤く、社殿の改築及び甲胃等を奉納した。社領は二石四升七合であった。明治40年10月、神饌幣帛料供進神社に指定せられた。明治42年9月15日、村内諸社22社を合祠す。飛地合祀社皇子宮で昭和60年10月例祭より神輿神幸が興り、又、飛地合祀社、宗道神社の例祭日に神幸行事あり。八幡宮御神徳顕著なりと伝う。明治43年12月13日、八幡宮火を失し、随神門を除くの外、烏有に帰し、その他の宝物類も焼失した。大正4四年現在に改築された。
御祭神:仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、天御中主大神、彦火火出見尊
224号を東へ進んで行き、前方224号に従い左折して進み、左手のJA岡山裳掛に車を停め、JA精米所前の道を西へ、右折して北へ、次を左折して進み、突き当りを左折して進んだ先(224号から南側、東側から狭い道がある-車でも可能だが停める場所が見当たらない)
荒神宮
由緒、御祭神共に不明
JA岡山裳掛前を右にカーブして進み、左折して224号を北に進む突き当りを右折し、道なりに進んだ突き当りに
皇子谷神社
由緒、御祭神共に不明
224号まで引き返し左折して道なりに進み港手前に邑久町漁協魚市場前に駐車場、車を停め、前方三叉路まで進み、右折して直ぐ左折し狭い道を、少し進むと左手に階段、その奥に(たまたま近くで出会った人に聞いたから、狭い道なので探すのはかなり厳しい)
鍋島神社
鎮座地:瀬戸内市邑久町虫明
由緒、御祭神共に不明
かき資料館にあった虫明の案内板にあったが、近くで何人かに聞いたが良く分からない様子、車を取りに行き、さっきのY字路を右折して西へ、前方十字路附近に車停め、左側を見ながら南側へ進んで行く、次の繁みを見ながら進むと鳥居が見える(手前の山にあるのが前記の鍋島神社、隣の南側の山にあるのが井垣神社、昔は行ききが出来たようだが今は無理のようである)
井垣神社
由緒、御祭神共に不明
魚市場先を右折して進み、突き当りを左折して進み、前方十字路を右折して進むと前方に広い場所、そのままに進んだ突き当りの広めの場所に車を停め、先の階段を登って行くと、先に鳥居、更に登って行くと左手に秋葉神社、少し登った右手に祇園神社
秋葉神社
由緒、御祭神共に不明
祇園神社
由緒、御祭神共に不明
細い道を行かなくても港沿いに進み、突き当りを左折、広めの場所を右折でいいが、実際かきの作業をしていたら?
224号を東へ進んで行く、三叉路を右に進み、道なりに進むと案内標識、案内に従い左折して橋を渡り最初の三叉路を左へ、直進し、3つ目の三叉路を左へ進んで行くと鳥居(木製の結構大きな鳥居-岡山では木の鳥居は珍しい)
光明神社
由緒、御祭神共に不明
岡山方面の標識に従って進むと、最初のブルーラインを出た先の信号へ、224号を西へ、ブルーラインを潜り先へ進み下寺公会堂の少し先の右奥(適当な場所が見つからず少し先の路肩へ車停め歩いて-北へ進む道を登って行き、前方畑の道を右手に進むと左手に)
宗道神社
由緒、御祭神共に不明
虫明ICよりブルーラインで邑久ICへ、39号を南へ進み一気に牛窓へ、左折して
28号を進み、牛窓東小学校を右折、学校前を右折して、小学校、幼稚園と進み、その先の右手に
由賀神社
由緒、御祭神共に不明
28号道を挟んだ反対側
御霊神社(お御霊様)
由緒:本神社の創建年代は不詳。往古綾浦の御鎮座であったのを、寛文8年八幡宵宮地内に御社殿を建立して遷したと伝える。享保8年12月願い出、享保13年3月綾浦に宮屋敷を新にし、御社殿を建立して御遷座し、村内一統を氏子とし、守護神として尊崇をあつめた。神社旧記に、「往昔海中より龍王上り、此処にて夜光赫々たり。衆人是を尊崇して、綾浦の氏神同様に唱え来り候」と有り、かつては古式の祭典法、行事等が伝承されていた事からも、その旧社たるがわがる。尚、平安時代から盛んとなった御霊信仰と当社との関係も注目するに値するであろう。
明治初年村社になった。
御祭神:仁徳天皇、龍神、応神天皇
28号を東へ進んで行く、出来るだけ先に車を停め(結構車を停める処はある)、瀬戸内きらり館の裏側、火の見櫓の方向へ
天神社
由緒:延喜年間(約1070年前)、菅原道真公が筑紫の太宰府へ左遷せられる時この山に登らせ給い、遥かにかすむ讃岐の連峰を望まれて、かつて讃岐守であった若き日を偲び、今生の別れを告げさせられたその時、御腰を掛けさせ給うた巌の跡に道真公を祀り天満宮として尊崇する様になったと伝えている。そして御神体については現存するもの二体があり、最も古い御神体(推定500年以上)と、太宰府飛梅の神木をもって筑州福岡往、御神体彫刻師佐田文蔵が刻んだ御神体を宝暦6年(約230年前)に太宰府廟より勧請して本殿に納め祀っている。本殿・幣殿・拝殿は文政8年(約150年前)再建されて現在に至っている。本社は古来より学問の神として人々に親しまれ、入学、進学時には大願成就の祈りをこめて日参され、霊験あらたかなるを信じ社前に額づく人があとをたたない。
磯山の峰の松風通い来て 浪や引くらん唐琴の迫戸 菅原道真
御祭神:菅原道眞、少彦名大神
天神社から前方見下ろす位置に仁が見えるが参詣道がやはり入り組んだ場所にあり、北側と西側共に民家の間の路地になっている。
不明神社
由緒、御祭神共に不明
此の先車は通れそうだが停めれるかどうか分からないので歩いて参詣を続けることにし、海側の一本内側の道を進んで行くと左手に鳥居がしばらく進んで行くと参道の表示があるので階段を登って参詣する。
金刀比羅神社(金毘羅宮荒神社)
由緒:金刀比羅神社の鎮座する高台は、昔から城山と言われている処で、島山左馬丞が山城を構えていたとも言われている。その昔、漁業不振に加えて、海難事故が相次いだので、讃岐国金毘羅大権現に願い上げ、御分霊を勧請し、既に祀られていた荒神社(向って左の本殿、かまどの神、三宝荒神)の相殿神としてお祀りしたことが始まりである。御祭神は、大物主命(大国主命の和魂)並に、崇徳天皇で、漁業・航海・殖産安全の神として、御神徳極めて高く、霊験あらたかな神であらせる。江戸時代に至って、名主那須肋三郎(豪商奈良屋)の寄進に依り、境内及び社殿の本格的な再建が行なわれ、文政2年(1819)本殿建立、天保11年(1840)には、幣殿、拝殿の建立が成され、嘉永元年(1848)の大鳥居建立まで、約30年の歳月をかけ完成されたものと言われている。然して、明治32年、大正10年、昭和53年と数次に且り修理が繰り返され今日に至っている。殊に戦後の著しい荒廃の為、一時は廃宮とまで取り沙汰された当社が、良識ある地区民の協力に依り見事復興した昭和53年の昭和の大修理こそは、後世の範として禾く伝えられるべきであろう。又、この地は、瀬戸内海国立公園でも有り、風光明眉、眺望絶佳にして、四国の連山はもとより、遠く播磨灘の島々まで望むことができる。
御祭神:大物主神、崇徳天皇
途中左手に稲荷神社あり
最一稲荷
由緒、御祭神共に不明
更に進んで行くとまた途中に小さな赤い鳥居と祠
不明稲荷
由緒、御祭神共に不明
前の道を更に進むと左手に(この神社は目立つ、かなり早くから前方に緑の屋根が見えている)
五香宮
由緒:本社の主祭神たる住吉三神は、牛窓神社の神々と共に、牛窓地名起源説話にて御活躍の神々である。即ち牛窓神社の項と重複するも、備前国風土記逸文に次の如き記述が有り、牛窓地名の由来(備前國風土記逸文)神功皇后のみ舟、備前の海上を過ぎたまひし時、大きなる牛あり、出でてみ舟を覆さむとしき。住吉の明神、老翁と化りて、其の角を以ちて投げ倒したまひき。故に其の處を名づけて牛輔と日ひき。今、牛窓と云ふは訛れるなり。即ち「神功皇后西国御遠征の砌、牛窓沖にて牛鬼の難に逢われ、危うき処を住吉大明神に救われた事がうかがわれる」のであり、茲に五香宮の鎮座の淵源が有る。五香宮古記録に依れば、「神功皇后は、住吉大明神の御加護に感謝、此の地に古くから住吉宮の存する事を聞こし召されて牛窓の浦に上陸なされ、自ら親しく住吉宮へ御参拝され、武運長久、航海安全、安産祈願(御懐妊中)等を御祈願なされた。そして御神前にて御腹帯を召され、御鎧を付けられた上で西国に御出発され、瀬戸内各地に御事蹟を残されながら、西国との和平を実現。御帰還の途次、再度牛窓の浦に上陸、家来の武内宿禰ともども、住吉宮に御参拝になり、戦勝に感謝、品陀別尊の無事出産を御報告なさり、神恩に報いる為に、御自ら御着用の御鎧一領、御冑、御太刀、御腹帯、御馬具等を御奉納なされたと言う」正に赫々たる古事来歴を持つ、備前国有数の古社である。しかしながら、牛窓神社と同じく弘治元年(1555)の芸州の乱にて、海賊多数蜂起して、牛窓の浦に来襲、住吉宮もその災いに逢い、神功皇后ゆかりの御神宝は幸いに難をまぬがれるも、古記録、棟札等は焼失したと言われる。下って江戸時代寛文6年7月、藩主池田光政公は牛窓神社に参拝され、その時に往吉宮の造営の由を仰せ出だされ、社殿が再建されるや、寛文7年8月、京都伏見の御香言から改めて、神功皇后と応神天皇の御神霊を勧請せしめて、往吉宮を五香宮と改称するべく命じられたのである。それ以来、五香宮は池田家の守護神とし朝野の崇敬を集め、延宝8年には綱政公が瑞垣並に鳥居を、継政公は直筆の繋馬の扁額を奉納され、以来、社殿や玉垣の修復は池田家によって行なわれる事となったのである。又、一般には、武神として、航海安全神として、安産神として尊崇され、殊に戦前に於いては、武運長久を祈る人々が連日県下各地より多数参拝し、生めよ増やせよの世相ゆえに、安産祈願の参拝者も又多数参拝祈願に訪れたのである。かくして今も尚五香言は歴史と伝統を静かに秘めて、流れの速き唐琴の瀬戸を眼下に臨む高台に鎮まっておられるのであり、歴史を訪ねての参拝者が絶える事はない。現存の社殿は、大正七年の大造営にかかる神明造り銅板葺きである。
御祭神:住吉大神、神功皇后、応神天皇、上筒男命、中筒男命、底筒男命
この神社は地図上では良く分からなかったが、五香宮で猫に餌をやっている人に尋ねると、直ぐ下に見える燈台の海側にあるとのこと、助かった
恵美須宮
由緒:唐琴の瀬戸に鎮座する当社は、古くから瀬戸神社、戎宮、瀬戸恵比須と称せられ、漁家や商家に尊崇されて来た。 神社旧記に依ると、「元来五香宮境内の南端に鎮座して、2尺四方の小祠であったが、降雨の為に岸が崩れ落ち、祠が危険となったので、宝暦4年10月18日に、これが移転の奉願状をその筋に差し出して許可を得、恵比須講の掛銀200目を基金として、現在地に遷宮奉祀した」と有る。往昔は、商家は正月に相寄って恵比須講を催し、特に漁家の信仰は厚く、毎年9月10日(旧暦)の祭礼には、挙ってこの宮に参集して大漁を祈願した。万治年中の餓網記録に依ると、最初の網下しに盛大な恵比須祭を催して船行列を行なったのが餓網祭の初見で、その後も餓網の年中行事として、境内を町民に開放して草芝居漁芝居(三番叟を踏む)などを催し、大魚を神に感謝並に祈願する春先、4月の祭事が、昭和の中葉戦前まで極めて盛大に行なわれたのである。
御祭神:事代主命
燈台にも赤い鳥居のお稲荷さんが
28号を引き返し、226号を右折し進み、左にカーブする手前を右折し進み、左折して坂道を登ぼろうとするが道が狭く崩れかかっている。近くにいた人の私有地に停めさせてもらう。(カーブする辺りに車を停め歩いた方が絶対無難-何回か溝に落ちながら何とか引き返す)
祇園神社
由緒:その昔、地元の大浦地区に児童の疱瘡の病が流行した時、京都の八坂神社より御神体を迎えて事なきを得た。以来毎年七月中旬には、祇園祭が賑やかに行われ、子供達が手作りの五色旗を奉納する習わしであった。
御祭神:素盞嗚命
左折した処まで引き返し、三叉路を左側へ突き当りを右折して海方向へ進むと鳥居、中程へも行けるようである。
元の道を引き返し、レストラン新月前の道右折し北へ、隧道手前を左折し、廻り込み隧道の上へ奥手前に駐車場がある
牛窓神社
由緒:当社は原初の頃は、土地の神霊及び氏の祖先の神霊をまつっており、牛窓明神と呼ばれていたが、長和年間、教円大徳によって豊前(大分県)の宇佐八幡宮から応神天皇・神功皇后・武内宿禰命・比賣大神の御神霊をお迎えして牛窓八幡宮となり、明治6年郷社に列せられ牛窓神社と改称した。社伝によれば、鎌倉・室町時代の山城国男山八幡宮(石清水八幡宮)の古文書に「牛窓別宮」の名があり、当時牛窓が石清水領であったと共に社格が大変高かったようである。神階は従三位、式外社、備前国古社128社の内の1社にして明治6年郷社に、明治42年神饌幣帛料供進神社に、昭和15年県社に、それぞれに列せられたが、終戦と共に社格は廃止された。弘治元年(1555)芸州の乱の時、海賊の焼打ちに遭い、全山を焼失し、社殿、宝物、記録等全てを失った。当時、牛窓は内海帆船時代であり、交通運輸の重要港に成長し、藩の政治、住民の経済力の増加を背景に、神社に対する信仰心も高まった。江戸時代、特に寛政、文化の頃から境内を拡大し、社容を整えた。特に本殿は近世の社寺建築の粋を凝らしたもので、牛窓町の重要文化財に指定されている。尚、当社の例祭は、毎年10月第4日曜日に行われ、神輿やダンジリの巡幸など港町の風情溢れる祭り絵巻が終日堪能できる。
御祭神:応神天皇、神功皇后、比賣大神、武内宿禰命
境内で神主さんらしき人に出会う、下の展望台があり是非と言われる。昔海岸からかなり長い階段を登っただけの気がしていたが、今は途中の展望台、上からの参詣、展望台も車でと楽になっている感じ。
神社の駐車場入口近くの角にやはり赤い鳥居がある。
不明神社
由緒、御祭神共に不明
牛窓の港辺りをずっと歩いて参詣したためか結構な時間を取られ、予定の西の方の神社を残すことになった。前回の天気といい思い通りには行かない。