今日は午後から天気が悪いが、そろそろ倉敷を片づけるつもりで倉敷方面へ、例によって新幹線沿いの242号で西へ、389号へ変わり山陽自動車道を過ぎた先を左折して中庄団地方向へ、土曜日なので美観地区を避け、お町トンネルを抜け、一時期のアルバイト先方向へ『倉敷成人病センター』先を右折して274号へ、先の信号を右折して進むと左手に神社が、神社横に車を停めて参詣
御崎神社
由緒、御祭神共に不明
この辺りの道は狭く入り組んでいるようなので元へ引き返し、274号を北へ行くと美観地区の標識、先の信号を右折して進んで行くと小さな川の先を左折した右手に(実際は注意しないと見落とす、この辺りをぐるぐる回っていてやっと見つける-早めに車を停め歩いた方が正解!)
若宮神社
由緒、御祭神共に不明
Uターンして274号まで引き返し、更に西へ進んで行くと倉敷駅前通りのR429号へ、-勘違いしてR429号を走る-直ぐ気付き信号を右折し、山陽本線を渡り、直進左手に、左折した場所まで引き返し、北へ進む、429号、山陽線を過ぎ、少し進んだ左手に鳥居、直ぐ隣に車を停める
八幡神社(八幡宮)
由緒:当社は天正年間に宇佐八幡宮から勧請されたと伝えられ「阿知の里」開拓の始めに創立された地方の古社として、民衆の崇敬厚く、殊に文化文政(1804〜1836)の頃は、大いに栄え領主池田家の崇敬を受け、澁江八幡宮と改称された。明治6年村社に列し、八幡神社と改称する。昭和19年10月12日神饌幣帛料供進神社に指定される。現在の社殿は文化年間の改築。境内に「阿知の松」があって、天下の銘木(樹下30余坪)として歌われ、文政年間時の従3位千種有切郷がこの松を愛でられ「此の里はかくこそあれと永久に立ち栄えゆく阿知の松が枝」と詠った石碑が現存する。この老松に因んでこの地を老松町という。松は、昭和18年松喰蟲の被害に遭い枯損(切り株年輪750年)
御祭神:応神天皇、神功皇后、仲哀天皇
引き返して線路を渡り真っ直ぐ南へ、R429号の信号を越え『県立倉敷工』の少し先を右折して進んで行くと右手に鳥居
足高神社
由緒、御祭神共に不明
神社前を西へ進むと前方に広い道路、右折、左折してR429号を進み、臨海鉄道を潜った先『中島』の信号を右折、左折して277号を進み、前方小さな川の手前を左折して進んで行くと右手に、神社前に駐車場あるが車止め、路肩に停めてすばやく参詣を済ます。
中島神社
由緒:神々の神威=愛宕さま、秋葉さまは火の神、鎮火
防火と共に農耕の守護神、金毘羅さまは大国主命の分霊にて光明と福徳を与え、祇園さまは農耕守護と疫病退散の神なり
御祭神:伊弉冉尊、埴山姫神、天熊人命、稚産霊神、豊受姫命、火之迦具土大神、大国主命、須佐之男命、役の行者
(分かり難いので注意が必要、タブレットで問題は無いが、運転中は難しく、一度停車する必要はある)
引き返し277号へ、更に引き返しR429号との交差点で188号を南へ進んで行くと横断陸橋の直ぐ先左手に神社、直ぐの信号を右折し中華園の駐車場へ車を停め目の前の神社へ参詣
穴場神社
由緒:盤長姫は愛媛県大三島町大山祓神社の御祭神大山積神の(日本総鎮守)御子神で天照大神の孫神瓊々杵尊のお妃木花開耶姫の姉姫に当ります。寛政十年(一七九八年)前記の大山祓神社からご分霊をいただき、当所中島小溝の地に鎮座いたしました。
御祭神:盤長姫命
堅牢地神社
由緒:遠く神代の時代から国を治めた神様で大地の神国つ神として国土の守護神です。徳川時代の初めの頃元和元年(一六一五年)から寛永六年(一六二九年)頃この中島小溝の開墾開発が行われた当時から地域住民の信仰を集めた神様です。
御祭神:堅牢地神
地神様が一緒に祭られている神社は結構多かったが、ここまではっきりと表示されていたのは初めて
188号へ出て左折して南へ、バイパスの側道沿いに西へ向かえば良いようだが上手く繋がっているかどうか地図上では確認できない、ナビを頼りに何とかたどり着く、工事中で通行止めで有ったが神社まではOK、法厳寺に車を停め参詣
片島神社
由緒:当社の創建年代は不詳であるが、寛永6年以前に奉祀した神社である。古来は易産生荒神社と称し、安産の神として信仰する者が多い。神仏混淆時代のなごりにより、神社の管理は法厳寺に委託していた。明治11年存置願提出の期を逸し、そのまま脱漏神社として奉祀してきたが、昭和17年片島神社と改称の上、明細帳脱漏神社編入願を提出し昭和18年神社明細帳に編入されて現在に至っている。
御祭神:素戔嗚尊
高梁川の土手を走っている時いつも見てた神社(お寺)土手側から行けば分かりやすいが、途中で車両通行止め?、土手下に車を停めて歩くのが一番無難か、妙任寺への車道は行き止まりで無理、またこのお寺には『妙見宮』がある
取敢えず引き返し、バイパスと側道で『大高』の信号へ275号を南へ進み、直ぐの細い道を進んで行くと前方に坂道、登って行くと墓地を通り過ぎ神社に
足髙神社
由緒:当社の現存する神社記録の最古の書は、平安時代・醍醐天皇延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳である。この書のなかに当社は記載されており、備中18社の1に数える最古社である。御鎮座の年代は、第10代崇神天皇の御代に勧請された。寛和元年(985)花山天皇の御代、足高神社神宮寺神遊山、神宮寺遍照院に三重塔が建立された。天暦元年(947)2月16日村上天皇は藤原兼成卿を遣わして、奉幣御祈願の儀があった。翌3年不思議な霊験があって神殿を御造営になり、有紋の御幕勅書を奉納され、乾元元年(1243)後二条天皇の御代、足高八幡大菩薩の勅額の下賜があった。延慶元年(1308)花園天皇の御代、勅額と獅子頭一対を下賜。また、建徳元年(1370)九州探題として赴任の今川定世公は、海路の航海の安全を祈願され狛犬を奉納した。徳川時代備前池田公の支藩、鴨方池田氏の祈願所として尊崇せられ、代継ぎの際は、代々必ず参拝された。足高山は、4百年前は、海中に浮かぶ一孤島であり、小竹島、笹島、戸島、藤戸島、吉備の小島、奥津島とも呼ばれ、東西航行の要路であり、潮流が激しく鳴門の如く、渦が巻いていたといわれており、通る船は、全て帆を下げ、島上の足高の神に、敬意を表し難を逃れた為、「帆下げの宮」と称して、崇め奉られた。古の海路は、現在、国道2号線(旧バイパス)となり、船に代わり、車の交通安全が盛んとなっている。
御祭神:大山津見命、石長比賣命、木之花咲耶比賣神
此処で宮司さんに声を掛けられ雑談、神社の建つ位置の流れから桃太郎伝説等まで、更には他の神社に関しても、
今回正式な参道へ下って行ってみたが参道口に結構車が止まっている。天気が悪く時間が遅かったせいもあるが神社近辺は結構薄暗いのと、健脚な老夫婦が多く見られたが私は今回参道を下り上がりしてしんどかった
雨も降りだしたのでバイパス沿いに少し進み22号で北上して、来た道へ出て帰宅、土曜日に関わらず意外とスムースに