先日に続き、少しコースを変えて新見市大佐方面を目指す。これまでと同様にR53号、72号と進み、吉備中央市街手前で左折して高梁方面(道の駅かよう)を目指す。道の駅手前でR484号へ、そのまま直進して西へ進み、岡山自動車道を潜った先、右折して78号にて北方向へ。(上がり降りが多く、霧に悩まされる-このコースは要検討:距離は最小のようだが高低差が多い)
咳止神社
由緒、御祭神共に不明
この様な神社も時々お目にかかるが、あまり気にもしてない
78号を進んで行くと前方にR313号、直進して316号を進み巨瀬学童保育先を右折して少し登った先右手に車停め(公共施設の駐車場?)歩いて前方の神社を目指す。(車で可能-表参道は学校の運動場の南に、通行は無理)
塩坪八幡神社
由緒:当社は第56代清和天皇の御代、貞観6年(864)甲申8月28日山城国男山石清水から勧請したと伝えられている。当時は五社八幡宮と称されていた。当時の本殿は梁行2間、桁行3間、三ツ扉、拝殿は梁行2間、桁行3間であったと伝えられている。
御祭神:仲哀天皇、氣長足姫命、譽田別命、天照大日靈尊、玉依姫命、甕速日命
川沿いまで引き返し右折して川沿いに進み、前方右折して進み『三村医院』の先に鳥居と駐車場(八幡神社から見えているので分かりやすい)
御崎神社
由緒、御祭神共に不明
R313号へ戻り北上、前方左手にもみじの里、その少し先、左折して78号を進み、前方左手にお堂が見える手前の右手に参道-車でも可能だが下に車を停め参詣
妙見神社
由緒、御祭神共に不明
今日はやはり大佐方向を目指すことをメインに、R313号へ引き返す
R313号を北へ進んで行くと右手に大鳥居、右折して進むと神社前に駐車場-車参道もあるが未確認-一方通行になっている感じ-久しぶりな整備された長い石段はやはりきつい
高岡神社
由緒:当社は第60代醍醐天皇延喜4年(904)高丸山に勧請し、仁安3年(1168)現在地に奉遷した。和名抄に英賀郡中井郷(なかつい)とある中井郷の大氏神として奉祀したものであり、大新嘗会和歌集、己之帖に「五社大明神 後一条院長和5年11月2日、主基方備中高岡、内蔵権頭善滋朝臣為政はふり子が祈るもしるく高岡の社の神も君を守れる」と詠まれて古来著名の神社として知られている。仁安3年現在地に移し、天明年中火災により建物一切を焼失したが、天明7年4月(1787)再建したのが現在の社殿である。本社は主祭神と配祀神とを合わせて5柱の神を祀ったので高岡五社大明神と唱えたが、明治維新で神仏混淆が禁じられ高岡神社と改称した。
御祭神:大倭根子日子賦斗迩命
R313号を北へ進み、前方中津井小先を右折して進み、突き当りを右折、川に沿って進んだ左手
金刀比羅神社
由緒、御祭神共に不明
山肌(屏風岩)に寄り添った神社、なかなか風情が!
R313号を進んで行くと右手に神社、ひたすら北方向へ進むべきが見つけると寄りたくなる。前方橋を渡り突き当りを左折して進むと右手に鳥居
郡神社
由緒:当社の御祭神は郷社昇格申請書によると大吉備津彦命である。従一位郡大明神御来歴書(旧社家武村家文書・岡山県博物館保管)に、16代応神天皇の御孫産火尊之霊神とある。仁徳天皇の御代に当国下向の時、当郷小殿邑に家臣丹治高雄親貞、多田守重両臣御側を離れず慕い奉る、とあり、御尊寿66才にて小殿邑にて崩御され、親貞都に通報した。帝は備中一宮と成し給い、一郡の大社従一位郡大明神と崇むべく宣らせられ、水田、中津井、呰部3ケ庄の小殿山の峯に御廟を営み、2月17日、11月17日(履中天皇の御代、癸卯2月と記述がある)に祭祀を執行した。 多田、丹治両氏が代々奉仕した。親貞の末孫親清も之を守った。久しく社頭、神事自然と疎略になり、天正年中、毛利輝元公より水田郷に知行を下され、宮殿、楼閣再興、神事祭礼、社役人、神職の事柄相定められたと平田佐渡守親重の書面が慶長8年2月に記述されている。以上の御来歴書の如く、由緒は誠に尊く、爾来本殿の葺替等度々行われているが、神社に現存する棟札は天正14年のものを含め13枚で現社殿となっている。現社殿は慶応元年着工、3年に完成し、宮大工は勝山庄、三谷栄治郎父子が3年に亘り、1本のケカキ(株跡現存・高梁市中央町)から丹誠込めて造営されたものであり、殊に本殿廊下十二支の彫刻、四隅に突出している象鼻(鎌倉時代のものか)は参拝者の関心の的である。現今は家内安全、交通安全、五穀豊穣、疫病退散の守護神として崇敬が篤い。7月16日夏越祭前夜祭に行われる火 祭りは近隣より多数の参拝がある。
御祭神:大吉備都彦命、伊邪本別命
神社前の道を東へ進み、前方十字路(手前にお堂)を右折して進み川を渡り道なりに進んで行くと池の先右手に山道-車でも通れそうだが未舗装の道、無難に歩いて参詣
御崎神社
由緒、御祭神共に不明
行く時は気付かなかったが引き返していると、直ぐの池の反対側に神社
荒神社
由緒、御祭神共に不明
広めの道を通って北に進むと前方にR313号-北房バイパス、よく分からないので直進し前方左折して進むと左手に(結果だが左折して西へ進むと右手に神社でも可能-神社前の道は繋がっている-未舗装)
不明神社
由緒、御祭神共に不明
R313号-北房バイパスを西へ進み、橋を渡った先を右折して川沿いに進むと前方に
厳嶋神社
由緒、御祭神共に不明
何故か地域よっては何故か釣鐘が良く見られる。神仏分離の対応の仕方か?
神社前の橋を渡り、直ぐ左折して58号を北方向へ進んで行くと右手に鳥居、路肩に車を停め参詣(鳥居の右横から車でも可能)
呰部八幡神社
由緒、御祭神共に不明
58号を北へ進み、前方の小さな川渡った右手奥に(1本先の道なら神社横へ車で)
国司神社
由緒、御祭神共に不明
58号を進んで行くと左手山裾に神社、先に進んで左折出来る道を探し、先ほどの神社を目指す(神社を目標に進めば田圃道でもあり問題なし)
不明神社
由緒、御祭神共に不明
結構な山の中、北房ダムを過ぎて更に進んで行くとやっと平地に、更に進んで前方右手に320号に分岐する直ぐ先右手に鳥居
御前神社
由緒:当社は、布瀬ヶ原を守護するように小高い位置に在り、主祭神は前玉命で天應元年11月武蔵国(埼玉県)の前玉神社の分霊を勧請したものといわれている。合祀神は、伊弉諾尊、伊豆能賣命、底津綿津見命、中津綿津見命、上津綿津見命、神直毘命、八十禍津日命、大禍津日命、底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命、大直毘命で、大正9年11月宮山神社を合祀する。昭和34年9月大歳神社外7社を合祀、昭和6年10月に神饌幣帛料供進神社に指定された。
御祭神:前玉命、伊弉諾命
58号を更に進み、前方『木曽田酒店』先を直進して橋を渡り、集落前を右方向へ進んで行くと前方に神社
荒神社
由緒、御祭神共に不明
更に進んで行くと前方左手田んぼの脇にも神社
荒神社
由緒、御祭神共に不明
この二つの神社は近くで出会った人に聞いてわかった(ストリートビューでは確認済み)
58号まで引き返し、北へ進んで行くと前方右手奥に神社(ゆっくり走らないと見落とす可能性大)
荒神社
由緒、御祭神共に不明
58号を進んで行くと川向うに神社、右折して反対側の道を進んだ突き当りの奥
大藏神社
由緒、御祭神共に不明
先に進み前方の橋を渡り直ぐに左折して川沿いに下がると神社前に、直ぐ先に空地
森瀬神社
由緒、御祭神共に不明
58号を更に進み姫新線を渡った先で32号へ、右折して32号を北へ進んで行き、刑部駅の先備北信用金庫前の信号を左折して進むと前方に鳥居、ここに車を停め右上の赤い屋根を目指す(あまりお寺らしくないお寺-前に稲荷がある)
稲荷神社(妙玄院)
由緒、御祭神共に不明
左手麓に神社が見えるが後回しにして、車へ戻り前の道を登って行くと左手に未舗装の道と駐車場の表示、更に登って行くと左手に神社の案内、一応参詣を済まし、後で東側参道からも
大佐神社
由緒:当社は、阿蘇津彦命、阿蘇津姫命を奉祀する。御創立は第50代桓武天皇の御代延暦3年、九州肥後国阿蘇神社から勧請したと伝えられている。社記によれば阿蘇神社から当国小阪部黄山の大悲之口という所に二柱の神が顕れたが人々はこれを知らなかった。ところがこの頃、旅人が道で災いに遭った。人々は不思議に思って旅人を助け養ったところ、或る日この旅人が「我はこの山の主なり伝々」と口走るようになった。人々は恐れ、領主にも報告し、人を集めて山に登ったが何故か分からなかった。その後、ある猟師が猟をしようと山に入ったところ大蛇に出遭って驚き、里に逃げ帰った。話しを聞いた名主、神主を始め村人が再び山に入ったところ、「トグロ」を巻いた大蛇がいた。その姿が神々しいので神主が拝礼して「御本体があるのなら顕れ給え」と祈ると、大蛇はそろそろと山を登って行った。その後に続くと、不思議なことに黄山の7合目の大悲之口に一夜にして出来たと思われる池があり、大蛇はその中に入って行った。そこで3人の巫女が祈ると、3人目にようやく神が顕れて「我は肥後の国阿蘇郡阿蘇大明神なり、我を信ずれば富貴繁盛、人民息災なるべし」といった。それからは黄山を大阿蘇(後大佐山)と称し広磐(現在の社地)へ仮殿を造り阿蘇大明神を勧請し、24年後の大同3年9月18日御遷宮が行なわれた。上刑部2131、高お神社を合祀し境内末社とした。
御祭神:阿蘇津彦命、阿蘇津姫命
引き返す途中で三叉路の角にある神社へ
不明神社
由緒、御祭神共に不明
鳥居まで引き返し、少し東へ進んだ先を左折して進むと左手に左折して神社前に
國司神社
由緒:本神社は寛永2年(1625)山城国雄徳山から、小阪部国司の地に勧請、奉斎した。旧称を正八幡宮と号した。寛文4年(1664)10月、領主水谷新右衛門勝能から米1斗5升を永代のため寄進された。
御祭神:大國主神
32号まで戻り、ほとんど帰宅モード、右手に赤い屋根が見え立寄ることに、小阪部上町信号を右折し、先の道が細くなりそうなので手前に車を置き参詣-小阪部知行所(陣屋)跡地
稲荷神社
由緒:本神社は貞享年中(1684年〜1688年)に相州星下妙傳寺から勧請し奉った。旧称を稲荷大明神という。大白稲荷大明神は寛文6年(1666年)に満勢下三輪から勧請し、正一位稲荷大明神は天保14年(1843年)4月に勧請した。
御祭神:倉稻魂命
32号へ戻り東方向へ、前方右にカーブした先『円通寺山門』『摩利支天宮』の標識の処に車停め歩いて参詣
八幡神社
由緒:本神社は仁和2年(886年)に九州宇佐から勧請した。明治32年冬に炎上し、同35年に再建した。
御祭神:譽田別命
神社前の道を更に北東に道なりに進んで行くと前方に鳥居
摩利支天宮
由緒、御祭神共に不明
深く考えなく神社として参詣を済ませ(神仏分離は色々な所で問題も?)帰宅の途に、やはり今日は予定が多過ぎ、不完全で遅くなり慌てて帰宅、ルートとしてはやはり先日のルートで、こちらの方が楽そうな気がする。