岡山県内神社巡り(メイン)

片っぱしらからの神社巡り

2016年01月

神社廻り-倉敷・総社残

寒くて1月は殆ど出かけてない、県北の山の中が参詣残が多く、路面の雪、凍結と私のドライブテクニックでは不安の為。
1月初めから清音の義姉の処へ届ける物を、神社廻りのついでに寄るつもりで車にのっけているが、延び延びに、意を決して届けを兼ねて出かける。予定としては清音から総社へ、総社大橋を渡り80号を西へ、主目的は近場の山の中の『穴門山神社』を目的に、しかも北がから廻るつもりで!
80号の北側で以前参詣した時、奥にあるとは思わず、道路側の祠で済ましていたので再度挑戦、『八幡神社:総社市新本7636』につられて北側の道を進んで行くと右手に八幡神社の鳥居、更に進み『新本小学校』を過ぎた先、右手奥に祠、右折して進み参詣、
不明神社
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鎮座地:総社市新本
由緒、御祭神共に不明

神社前の道を西へ進み突き当り、川を渡り右折して進んで行くと左手に祠、その傍に山道、登って行くと神社?(神仏?の区別がやはり厄介?)
行者神社
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鎮座地:総社市新本
由緒、御祭神共に不明

引き返して80号へ、左折して少し引き返し右折して282号を進んで行くと右手山裾に、路肩へ車を停め歩いて参詣、通行量は少ないし車で十分可能であった
不明神社
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鎮座地:総社市新本
由緒、御祭神共に不明

282号を南へ登って行くと前方に酪農施設、右折して進んで行くと前方にUカーブ、舗装されてない道を道を直進して進んで行くと左手に山道、舗装されてないが左折して進んで行くと途中から舗装、前方Y字路を左手の坂道を登って行くと駐車場、その先に
穴門山神社
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鎮座地:倉敷市真備町妹895
由緒:本神社は創立年月不詳ではあるが、祭神は穴門武姫命を祀る。また、延喜式(下道郡)に穴門山神社と見える。社伝によると、社地の正面南方数町に馬場、また遊場、示場、神子免、宮地、殿田等の地名があり、吉備の名方の浜の宮もこの地であると伝えている。また、諏訪山の城主が厚く崇敬し、武運を祈った。後柏原天皇の永正年間、出雲の懸合の城主が大挙して、来襲し、西鷲峯山小ヶ谷に陣を置いたが、難攻累月で陥落しなかった。これは神のご加護によるものとして社殿に火を放ち、神器、神宝、古文書等悉く焼き払った。郷民は相談して、川上郡高山村に当社の行在所を設けて避難した。その後兵乱が続き、再興する時期がなかったが、東山天皇の宝永元年7月、青穂五社大明神の神主三島美濃、許状拝受のため上京し、吉田三位侍従兼敬から、「穴門山神社は下道郡五社の一つであるのに上京しないのは何故なのか」との下問されたので、状を具して答申した。中御門天皇享保5年庚子3月吉田家から、再興の命があり、岡田藩主従五位下伊藤播磨守長救が社殿を建築し同年9月24日遷宮を執行した。その後延享2年乙丑藩主従五位下伊藤若狭守長丘、拝殿増築を行い、神輿1基を奉納した。この時社地を開墾すると、古鏡が出土した。その古鏡は、200年前兵火で失った神鏡であるとして、藩の官庫に保管し、祭日(9月24日)には重臣を派遣して社殿に安置して警備した。明治維新後、社殿に奉祀して今日に至っている。明治5年郷社に列格。同年小田県から式内神社と定められる。同年12月、同名の神社が川上郡高山村にもあって、どちらとも決定し難いとして明治8年7月両社とも、式内とする旨の通達があったが、同年八月式外と再通達があった。明治43年4月1日及び同年9月15日、村内無格社18社を合祀した。
御祭神:穴戸武姫命
結構神社までの参道が整備維持されている神社、県道から行けるので北からのルートを通ったが本来は南側から、地図で見る限りは通行し難い感じなので今回のルートにしたが、やはり南側の方が良かったか?(神社から南側を眺めた感じ)、途中の神社を残しているので引き返す。-参詣順序選択ミス!

先ほどの酪農施設まで引き返し、東へ進んで行くとゴルフ場の中へ(吉備カントリークラブは東側が正面)、ゴルフ場を出て直ぐ右折して進むと右手に
護王神社
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鎮座地:総社市新本
由緒、御祭神共に不明

ゴルフ場入口まで引き返し、入って直ぐの左手の山道、右手に登って行くと突き当たりに、教会と広場(未舗装だが車で可能-実際は不安で早めに車を停める-馬鹿なことをした!)
此処からジグザグの坂道を登って行くがかなり距離と勾配が在り、倒れれる寸前、この処サボり気味なので当然か!
石槌神社
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鎮座地:総社市新本
由緒、御祭神共に不明
飲み物を用意していなかったので非常に疲れを感じ、倉敷市街-街中を目指すことに

ゴルフ場から80号を目指し進んで行くと右手池の土手の脇に
不明神社
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鎮座地:総社市新本
由緒、御祭神共に不明

80号を目指して更に進んで行くと左手に神社、前方を左折し進んで行くと『八幡宮』の鳥居、左折して進んで行くと小原公会堂の隣に
不明神社
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鎮座地:総社市新本
由緒、御祭神共に不明

総社大橋を渡り右折して、R486号を南へ、朝方気になっていた土手下の木立へ、道がV字で曲がり難いが、切り返して下って行った突き当たりに
金比羅神社・阿多古神社
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鎮座地:総社市中原
由緒、御祭神共に不明

R486号へへ戻り、高梁川沿いに倉敷を目指し、美観地区へ、そして22号で南へ『藤戸』の東で直進してトンネルへ、出口先を左折して進むと左手に『平家本陣跡』が、側に道があるが狭いので車を置いて歩いて参詣、(北側から車で可能)
田槌神社
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鎮座地:倉敷市粒江400
由緒、御祭神共に不明
以前藤戸近辺の神社は参詣を済ましているが、確か源平藤戸合戦の『佐々木盛綱』の像があった。

トンネルを潜る前右手に神社を見ていたので倉敷方向へ帰る前に『粒江小南』信号脇の広い路肩に車を停め歩いて参詣(歩いて神社を目指したが車でも可能、東側から陸橋を渡るか、車を停めた少し先を左折して進む)
妙見宮
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鎮座地:倉敷市粒江
由緒、御祭神共に不明

美観地区まで引き返しアイビースクエア東の有料駐車場へ車を停め、稲荷神社へ
城山稲荷神社
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鎮座地:倉敷市本町
由緒、御祭神共に不明

アイビースクエアを抜け美観地区手前から神社を目指すつもりだったが工事中で通行禁止、外側を廻り右手丘上の神社を目指す
阿智神社
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鎮座地:倉敷市本町12-1
由緒:倉敷の古名は「阿知」であり、当社は倉敷総鎮守の神社である。これは、日本書紀応神記(4世紀)に「阿知使主(あちのおみ)が韓国より17県の人達を率いて帰化してきた」とあり、阿知使主の一族がこの地に住み着いて、養蚕・絹織・縫製・鉄文化等の先進技術を伝え、広め、大いに栄えたことに由来している。また、社記には神功皇后三韓征伐の途中、暗闇に航路を見失われ宗像三女神に祈願された時に、三振りの剣が雷鳴と共に天空から明るく輝いてこの地に降ったため、応神天皇の御代に妙剣宮(妙見宮)と称してこれを祀ったと記されている。古来この一帯は吉備の穴海と称され、内海深く湾入し社地は内亀島という小島であったため、海の交通交易の守護神である宗像三女神を奉斎したとも伝えられている。室町末期、慶長、元和の頃から祭祀は当地草分けの有力者の木綿襷組(ゆふだすきぐみ)が交代執行し、江戸中期に観竜寺の別当が管理し、神仏混淆して明治に至ったが、同2年神仏分離令により妙見宮を阿智神社に復号した。当社は倉敷の中心部、美観地区の鶴形山の頂上にあり、広い境内には蓬莱思想に基づいた日本最古の鶴亀様式の古代庭園とも伝えられる天津磐境の他、盤座・磐境が点在し、中腹の斎館の風雅な庭には陰陽の盤座のほか水琴窟もある。また、能舞台、絵馬殿、芭蕉堂等もあり、本殿北側の「阿知の藤」は曙藤では日本一大きく古く、倉敷市の市花でもあり、県の天然記念物に指定されて、毎年5月5日の藤祭には多くの人で賑わう。
御祭神:多紀理毘賣命、多岐都比賣命、市杵嶋比賣命
小さい頃よく倉敷にいたせいでこの神社は公園を含めよく来ていた。境内に駐車場が在り、此処へ車は停めるべきだった。

北側へ廻ってから車へ戻るつもりで歩いていると西側お寺(観龍寺)の中に神社っぽい屋根が、やはり寄って行くことに
妙見宮
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鎮座地:倉敷市倉敷市阿知2丁目25-22
由緒、御祭神共に不明
ここで裏がから写真を撮ろうとして足を少し踏み出したら警報が、何が有るか知れらないが昼間位警報を切っていてほしいものだ。

少し時間が早いが帰宅することに、倉敷中心部には稲荷を含め目立たない神社が結構ありそう、シーズンを選んでゆっくりと歩きまわるか?

最近岡山で備前焼の狛犬が盗まれている。また、変な眼で見られことがあるかな?、以前賽銭泥棒が多かった頃も同様な気がした。閉鎖された地域には変な人はいないことが前提なのか?

神社廻り-久米郡方面

元旦に出かけただけで寒いので家に籠って過去の参詣の整理を、基本的に無料で大量のデータを整理して活用するか、と言う事を目的にしているが現時点でこれと言う物が無い。今後のことを考えGoogleフォトでオンライン上にアルバムで、そしてExcelとAccessでデータ操作と検索を
少し飽きてきたので久しぶりに出かけるが、残った処は辺鄙な所と北方が多いので少し悩んだが出かける時間が遅いのと、久しぶりと言う事で久米郡方向へ、R53号で北へ久米南町に入って前方375号を左折して進む(初めての道)
全く神社は見られず進んで行って行くと前方に池、池の畔、に参道が、『曩祖神変大菩薩』流石に神社と見なすのは少し無理か?、直進すると『久米南美しい森キャンプ場』、前方左折して375号を進み、前方Y字路を右手に取り375号を進み、更に前方右折して同様に375号を進み、前方の交差点を左手V字に進み直ぐ前方のY字路を左手方向へ下って行くと、前方左手に未舗装の山道、手前に車を停め歩いて参詣。
籾山神社
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鎮座地:久米郡久米南町下籾922
由緒:当社は、和銅5年(712)肩野物部(弓削建物部)乙麿が建立したと伝えられる。もとは王子宮又は王子権現と称していた。龍王山城主岸備前守氏秀の祈願所として、志呂神社と共に弓削庄内の信仰を集めていた。明治6年に下籾神社、同8年10月籾山神社と改称した。明治10年村社に列格した。
御祭神:大穴牟遅尊
ゴミ当番の立ち合いで朝早く、そして久しぶりのせいか初っ端から勘違い、右手ぎんなん園への右手未舗装の山道を走り突き当りで気付き引き返す、そして神社への道も未舗装だが十分通行可能、落葉、枯木等が綺麗に清掃されている。また、直進した456号から北側へ登った方法もあるようだが、防護柵等厄介か?

375号まで引き返し北方向へ進んで行くと、前方375号が右折する処を左手に、直ぐのY字路を右手に進んで行くと右手に、手前に車を停めたが、神社前に空地有、
河島神社
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鎮座地:久米郡久米南町中籾
由緒、御祭神共に不明
源氏河島の城(上殿城)跡に建てられた神社のようである

375号へ引き返し北へ進み、前方『久保田』バス停附近に車を停め左手山の中腹の民家を示し、民家の横の山道を登って行くと、途中防護柵があるが開けられるので山道を登って行くと神社の裏側横手に、西から車で可能なようだが未確認(東側からは信じて山道を登って行く勇気が必要?)
八幡神社
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鎮座地:久米郡久米南町中籾184
由緒、御祭神共に不明

375号を北へ進んで行くと前方左手坂上に-よくは知らないが黒住教の教会?
忠春神社
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鎮座地:久米郡久米南町中籾
由緒、御祭神共に不明

375号を更に北へ進んで行くと右手に、
上籾神社
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鎮座地:久米郡久米南町上籾849
由緒、御祭神共に不明

375号を更に進んで行くと前方に373号、右折して373号を南へ進み、前方左折して376号を進むと直ぐ左手に
久米南天満宮
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鎮座地:久米郡久米南町上籾
由緒、御祭神共に不明

70号へ出るつもりで373号へ戻り、北西方向へと進んで行く、県道にもかかわらず非常に細い山道、かなりの距離対向車に出会うとどうにもならない感じの処がかなり長く続く、冬なので有名な棚田も侘しい限り、二度とこの道は通らないと思いながら進んで行きやっと70号へ、出会った処は神社前
境神社
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鎮座地:久米郡美咲町境1373
由緒:当社の創建年月は不詳であるが、寛永15年再建と伝われている。上古より今宮大明神後に今宮牛頭天王と号した。天保6年亀山天王と称し、明治2年4月今宮神社と改称し、更に明治6年2月境神社と改称した。往古より神威炳然として氏子の尊崇篤く例祭には元境他末社御親神社古地への神幸を例とする。帰途馬場に於いて流鏑馬を行う。これは慶長年間津山藩主森忠政公が金田(神田)及び馬を献じ、自ら馬上より弓をもって並木松に掛けた的を射て神前に奉納したことによる。御神幸の途中で奉納される獅子舞は県の無形文化財。棒仕いはこの地方独特のもので、その淵源は当地鶴田に現存する日本最古の古武道竹内流にある。
御祭神:素盞嗚命

70号を北へ進み、前方山の手前の道を左折して進んで行くと右手に、先で境内へ入れる
宮代神社
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鎮座地:久米郡美咲町打穴上1667
由緒、御祭神共に不明

70号を北へ進んで行くと右手に『二上温泉』右折して、交差点を直進して坂道を登って行き、前方T字路を左折して登って行く、坂の上の民家の前に車を停めて歩いた参詣したが、神社前まで道は狭いが車で可能
興津神社
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鎮座地:久米郡美咲町打穴里225
由緒:当社の創建年代は定かではないが、口碑によると氏子内の國宗、菅、友定氏等の祖先が勧請したと伝えられている。古来から鎮火守護の神として霊験あらたかである。現在の社殿は、國宗氏の祖である山崎友三郎が火難消除の立願をし、自力で建立した。当人一代に著しい御加護を蒙った事実は、今なお古老の伝えるところである。以来、地方住民が篤く崇敬する神社となった。
御祭神:須佐之男命、奥津彦神、奥津姫命

70号へ戻り、北へ進んで行くと小さな川の左手に神社、少し入った処に車を停め参詣
白山神社
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鎮座地:久米郡美咲町打穴里1765
由緒:当社は、一条天皇の御代に打穴太郎重長が加賀国白山権現から御分霊をこの地に奉祀したと伝えられており、王子白山権現宮と称した。文安年間火災に罹り、社殿を全て焼失したが、御神体のみ難を免れた。その後、宝暦年間に社殿を現在の地に移し、再建した。明治6年村社に列格した。昭和5年神饌幣帛料供進神社に指定された。
御祭神:伊邪那岐命、伊邪那美命

更に70号を北へ進んで行くと左手に
榊葉神社
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鎮座地:久米郡美咲町打穴西634
由緒:当社の創建は景行天皇の御代といわれている。もと、下打穴数村の大産土神である。天正年間、原田貞佐が造営した。安政3年卜部良煕から榊葉八頭大明神の下し文を受けた。明治6年7月郷社に列格。明治42年から43年にわたり荒神社9社、境外神社9社、無格社36社を合祀した。同44年神饌幣帛料供進神社に指定された。拝殿は昭和5年改築。昭和52年に社務所を改築した。
御祭神:天兒屋根命、須佐之男命、大地主神、菅原神

時間的には少し早いが久しぶりなので帰宅、少し北へ進み、右折して159号、前方右折してR53号で!
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