年老いたワンコの世話が大変、天気、疲れ等でしばらく出かけてなかったが、奥さんとワンの事で喧嘩?、気分を害したので思い切って出掛ける。方向としては因幡の国、智頭町方面へ。
赤磐市を27号で北上、ドイツの森のの先でR484号へ、吉井川でR374号に、湯郷温泉、林野へと進み、51号で北へ、途中一部R429号を経て7号を北上、久賀ダムを通って右手峠で鳥取県(智頭町)へ、途中気になって梶並神社:美作市梶並123へ北側から参詣、実際に神社に着き一度参詣したことを思い出す。

鳥取県へ入って坂道を下って行くと前方にR53号からの296号が、右折して進んで行くと左手に
奥神社
689-1426_奥神社page
鎮座地:鳥取県八頭郡智頭町西谷619
由緒:承応三 (1654) 年奥村の祖先が中原から移住の際、中原八幡宮分霊を勧請、産土神「八幡太神宮」して創建。宝暦四 (1754) 年奈良春日大明神(春日大社)を合祀。 嘉永六 (1853) 年本殿再建。昭和二十七 (1952) 年、社殿を40m手前に移動している。(記事参考「智頭町誌」)
御祭神:不明

7号を更に下って行き、前方に左手小さな橋が、その奥に
白坪神社
689-1426_白坪神社page
鎮座地:鳥取県八頭郡智頭町西谷19
由緒:天安二 (858) 年、安芸(広島)厳島神社の分霊を勧請して「太芸宮」を創建。瀬織津姫を祭神として「滝の牛王」とも呼ばれていた。明治六 (1873) 年「白坪神社」と改称して村社となる。(記事参考「智頭町誌」)
御祭神:瀬織津姫

前方に智頭線、その先にR373号、右折して進み直ぐ左折し、V字に進んで行くと自動車道の下を潜った直ぐ先の右手
中原神社
689-1423_中原神社page
鎮座地:鳥取県八頭郡智頭町中原398
由緒:古くは治暦元 (1065) 年に男山-京都石清水八幡宮を勧請して「八幡宮大菩薩」を建立。その頃、中原村の家数は八軒余。氏神無くキツネやタヌキによる深山に引き込まれての死亡事件も相次いだという。応永元 (1394) 年、案じた村人衆は男山に参詣、改めて男山八幡宮を勧請している。延宝六 (1678) 年本殿再建。明治四十 (1907) 年幣拝殿改築。本殿の向拝、木鼻、目貫、欄間、唐障子の絵柄には丁寧さの中に迫力ある彫刻が見られる。明治六 (1873) 年「中原神社」と改称、村社に列された。(記事参考「智頭町誌」)
御祭神:不明

R373号を進み自動車道を潜った少し先の左手
福原神社
689-1425_福原神社page
鎮座地:鳥取県八頭郡智頭町福原405-6
由緒:元弘元 (1331) 年、出雲熊野神社の分霊を勧請、荒神社として創始した。弘化四 (1847) 年、山の神社を勧請。明治五年「福原神社」に改称。(記事参考「智頭町誌」)
御祭神:不明

R373号を進んで行くと左手集落の後ろに、少し進んだ先左折してV字に引き返す感じで進んで行くと前方右手に
温江神社
689-1424_温江神社page
鎮座地:鳥取県八頭郡智頭町駒帰129
由緒:古来より住吉、熊野の十二社権現を駒帰村氏神として祀っていた。寛平四 (892) 年、熊野本宮から伊邪那美神を勧請、「十二社権現」として鎮座創建された。天和二 (1682) 年「十二社権現」と「森大明神」が合祀。「森大明神」とは駒帰いぜんの「尺原」の氏神と伝わる。享保十九 (1734) 年になると、それぞれ独立して社を建立した。明治元 (1868) 年「神仏分離令」のよって、尺原の「山の神森大明神」は廃社となった。駒帰郷はもともと尺原の人々が開拓したものだという。
史誌により微妙な記述の食い違いはあるが、明治元 (1868) 年まで「森大明神」と称していたのを「温江社」と改めている。明治五 (1872) 年「温江神社」と改称した。
御祭神:不明

引き返して北へR373号を進んで行くと福原神社との中間辺りに『智頭往来』の案内とその先に『副ヶ瀧』最初の7号との合流点先へ進み自動車道を潜った先、自動車道入り口の手前の反対側左手奥
中宮神社
689-1422_中宮神社page
鎮座地:鳥取県八頭郡智頭町尾見142
由緒:元徳元(1329)年島根八束「熊野大社」の分霊を勧請して祭祀「中宮大明神」として開創された。棟札から見る最も古い記録は「宝永二 (1705) 年山の神社尾見村発御氏神位」とされる。これは名引村(当神社近隣の旧村名)の氏神といわれている。「中宮大明神」と表記されるのは享保四 (1719) 年以降のこと。寛延元年 (1748) 年には廣峯神社の牛頭天王を勧請、宝暦三 (1753) 年には稲荷大明神を合祀している。万延元 (1860) 年になると「尾見荒神」と呼ばれていたという。古老の言い伝えによると、境内から小石をいただき鼠の出入口に置けば鼠封じになるとして「猫の宮」とも呼ばれていたという。(記事参考「智頭町誌」)
御祭神:不明

R373号を更に進んで行き、前方左手2本目の橋(恋山形駅方向)の処で出会ったご婦人に尋ねると「西光寺の隣りだが参道が分かり難いから」と言って近くまで案内してくれた-最初の橋を渡り真っ直ぐ進めば良いようであり、少し入った処に石灯籠が目印、線路を潜った先
大内神社
689-1421_大内神社page
鎮座地:鳥取県八頭郡智頭町大内284
由緒:最古の記録としては正徳元 (1711) 年、出雲の杵築神社の分霊を勧請して金光寺(西光寺の元塔頭跡地)跡地に建立されたとある。しかし棟札から寛文十三 (1673) 年には社はすでに在ったようで、元禄十五 (1702) 年「山王権現」を祀って御神体が成就したという記録がある。その関連記録によると、八万大神宮を享保八 (1723) 年に、享保十年には山王権現社が建立されている。正徳四 (1714) 年廣峯神社から牛頭天王を勧請したという棟札もあるが、これは大内神社の対岸の村社「木下神社」のものと見られている。明治五 (1872) 年「大内神社」と改称。明治四十二 (1909) 年幣拝殿を新築、木下神社を合祀した。棟札は木下神社のもが混同しているため、大内神社の記録を不確かなものにしているようだ。三段目階段途中に胴5,3メートル高さ40メートル樹齢400年の大檜があったが、昭和59 (1984) 年に伐採された。(記事参考「智頭町誌」)
御祭神:不明

R373号から前方右折して6号を進んで行くと旧山形小学校(国の有形文化財に登録)が見られその先に6号沿の北股谷のふるさと史跡案内があり、せっかくだからここに表示されている神社も
6号を少し進み、小さな橋を渡り左手に完成記念碑の付近に車を停め、右手を川沿いに進んで行くと左手に
米原神社
689-1414_米原神社page
鎮座地:鳥取県八頭郡智頭町西野
由緒、御祭神共に不明
隣りには『大日堂』がありこちらの方が断然立派!-大日堂については元禄十四 (1701) 年、大日尊堂建立の記録が最も古いとされる。次いで享保五 (1720) 年歓喜寺五代宥栄が大日堂を再建している。さらに文政五 (1822) 年になり本堂再建ーとある。大日堂の願主は戦国時代の武将.私部(きさいち)城主大坪甚兵衛。史誌「陰徳太平記」に記された武将である。(記事参考「智頭町誌」)
御祭神:不明

6号を北へ少し進み、右にカ-ブした左手に歓喜寺の駐車場、ここに鞍馬を停めお寺の右隣りを目指す
西野神社
689-1414_西野神社page
鎮座地:鳥取県八頭郡智頭町西野
由緒:安永六 (1777) 年、播磨(姫路)の廣峯神社から牛頭天王を勧請して産土神(うぶすな)にしたとされる。元は谷の上に在ったものを、嘉永七 (1854) ねん、西野村藤原源七が再建したとの記録がある。小規模ながら華麗で繊細な本殿彫刻は特異である。向拝に彫の深い龍が二匹。義眼が鋭い。側面には、獅子とボタン、鷹に松、千鳥にブドウ。他、龍頭、鶏頭、兎、鳳等の彫刻を飾り付けている。こうした装飾は、智頭町では江戸後期から明治初期に多く用いられ、金毘羅神社、諏訪神社、垣内神社にも見られる。(記事参考「智頭町誌」)
御祭神:不明

6号を進むと『浅見』の標識、路肩に車を停め川を溯って行くと右手奥に
浅見神社
689-1414_浅見神社page
鎮座地:鳥取県八頭郡智頭町西野
由緒、御祭神共に不明
三村が合併した西野か?旧地名ごとに地区名を冠にした神社がある

6号を更に進み少し行って橋を渡った先に車を停め、右手に入り直ぐの道を左折して進んだ奥
中島神社
689-1413_中島神社page
鎮座地:鳥取県八頭郡智頭町大呂121
由緒:往古より八荒神を祀り「大将軍」と称していた。確認されたもっとも古い記録は、明和元 (1764) 年「奉建立大将軍」と記された棟札だという。明治元 (1868) 年、中島神社と改称した。後、松尾神社(大山昨令)、山の神(大山祇命)、境内稲荷社(宇賀神命)を合祀する。(記事参考「智頭町誌」)
御祭神:武應穂命

6号を更に進んで行くと、集落の先、右手に神社、先の民家の路肩に車を停め民家の間から田圃脇道を歩いて参詣-実際は少し先に進み出会った人に尋ねる
池本神社
689-1413_池本神社page
鎮座地:鳥取県八頭郡智頭町大呂327
由緒:古くから辻堂に観音を祀り、氏神を八代荒神としていた。「宝永五 (1708) 年」と記された棟札が最も古いものという。寛政二 (1790) 年、社殿再建の記録がある。享和三 (1803) 年、山神を勧請し「山大神」としていたが、明治九 (1876) 年「池本神社」と改称した。池本村は中嶋村の枝村であるため、池本村に関する歴史的資料はほとんど無いという。
御祭神:不明

6号を少し進み右にカーブする手前に車を停め、前方直進して進む
大呂神社
689-1413_大呂神社page
鎮座地:鳥取県八頭郡智頭町大呂
由緒:ー大呂村伝説。ーその昔ー大呂少監なる者奥州に在り。相馬正門(平将門)に味方した為、誅伐(ちょうばつ)の追手に遭い、当地へ流れ着き、家来共々開墾に励み、農業にて生計をたててきた。ー(平将門と直接関わったとなると、880(元慶4)年から940(天慶3)年の間となるが)ー 大呂一族は、隠れ谷の字名の残る当地から、分家-成畑谷に至るまで、近世まで年貢御免とされてきたという。
御祭神:不明
この地区も旧三集落が合併した処か?各地域に神社在り、また神社前の大きな民家は?

6号を更に北方向へ進んで行くと左手に、手前に駐車場
虫井神社
689-1413_虫井神社page
鎮座地:鳥取県八頭郡智頭町大呂967
由緒:虫井神社ハ其昔遠ク人皇第十二代景行天皇ノ御宇人文未ダ聞ケズ皇威八荒二輝キ初ムルヤ此地ニ在リテ因幡国ヲ統治セル当神社三人ノ御兄弟(荒海、都々良麻、里人)ハ率先シテ皇化ニ浴シ部下住民ヲシテ皇室ニ忠良ナル臣民タラシメ皇其ノ振起ニ效シ爾来千八百年地方ノ氏神トシテ遠近ノ崇拝厚ク古クハ三代実録所載元慶七年因幡国正六位上虫井ノ神ニ従五位下を授クトアリ(神社御由緒より)
御祭神:瀬織津姫、須佐之男命、速秋津比賣命、天御中主命、大山祇命、宇賀魂命

6号を北へ進んで行き、芦津郵便局を右折して進み前方Y字路を右手に進んで行った左手(三滝方向へ)-どんぐりの館・ももんがの湯の前
芦津神社
689-1412_芦津神社page
鎮座地:鳥取県八頭郡智頭町芦津
由緒:芦津神社は、大正五年「虫井神社」に合祀されたーと記録される。(記事参考「智頭町誌」)
御祭神:不明

この先には神社が無さそうなのでR373号まで引き返すことに-ひたすら

6号を引き返しR373号を西へ進んで、山形郵便局の先、GSの裏側に鳥居、GSの西側に車を停め田圃道を歩いて参詣-一度見落とす
垣内神社
689-1415_垣内神社page
鎮座地:鳥取県八頭郡智頭町郷原47
由緒:創立年代不詳なれど往古から存在した。後、寛文四 (1664) 年、紀伊熊野神社の分霊を勧請して「熊野権現」と称した。幾度か再建の記録がみられるが、現在の本殿の再建は安政五 (1858) 年、八河谷村綾木嘉助(毛谷神社の再建にも関わる)の手による。その華麗な彫刻群は見事なものである。向拝に龍、尾垂木に龍頭.鶏頭、側三面に唐獅子.鷹.千鳥が浮き彫りされている。現名「垣内神社」と改称したのは明治五 (1872) 年。
境内三社。:荒神社-正徳五 (1715) 年。山の神-文政六 (1823) 年。中央の祠-大将軍、寛政五 (1793) 年。 左祠-愛宕神社、近くの「秋葉神社」を合祀したとされる。(記事参考「智頭町誌」)
御祭神:不明

R373号を更に西へ進んで行くと右手山際に、路肩に車を停め歩いて参詣
毛谷神社
689-1416_毛谷神社page
鎮座地:鳥取県八頭郡智頭町毛谷57
由緒:元禄七 (1692) 年、姫路(播磨)広峰神社の分霊を勧請「牛頭天王」として祀った。天保十三 (1842) 年、三宝荒神と山の神を合祀した。時は鳥取藩十代藩主に池田慶行が就任した年。現名「毛谷神社」と改称したのは、明治五 (1872) 年のこと。大正十五 (1926) 年には、酒清水(毛谷)の清水神社を合祀した。(記事参考「智頭町誌」)
御祭神:不明
少し参道が分かり難い、何か民家へ入って行く感じ!

R373号を更に進み、自動車道を潜って進んだ少し先の右手、少し先の路肩へ停め、参詣
篠坂神社
689-1417_篠坂神社page
鎮座地:鳥取県八頭郡智頭町篠坂285
由緒:延宝三 (1675) 年出雲熊野神社の分霊を勧請して熊野権現として創建した。本殿は嘉永七 (1852) 年に再建されたーと棟札から推察される。(記事参考「智頭町誌」)
御祭神:不明

R373号を更に進んで行くと左手に橋、反対側の右手の道を登って行くが、非常に狭い道、前方に広い道、右折して登って行くと前方に、前に駐車スペース
杉神社
689-1402_杉神社page
鎮座地:鳥取県八頭郡智頭町智頭2489
由緒:杉神社杉の精霊を祀る全国でも類をみない神社。裏山にある滝大明神は因幡の名所。全国に例を見ないこの杉神社のご神体は、高さ12m、底辺8m、杉をかたどった白亜の塔で、樹木の霊を宿らしたものと伝えられます。昭和30年(1950)10月に完成したこの塔は、当時町議会議員であった米井信次郎が私財を投じて建設したものです。、奥の滝に祠が-滝大明神
御祭神:不明
広い道を下って行って分かったことだがこの道が参道、R373号と出会うところに表示が

R373号を少し引き返し、橋を渡って南へ進み、智頭線を潜って進んだ左手に、先に進んだ処に車参道あり-短いが
三輪神社
689-1403_三輪神社page
鎮座地:鳥取県八頭郡智頭町南方201
由緒:創立年代明かならず、古老の伝に大和国城上郡三輪町鎮座三輪神社の御分霊を勧請せりと謂ふ、三輪大明神と称す、明治元年八月十七日境内鎮座稲荷大明神(祭神 宇賀魂命)当町字船山奥鎮座山ノ神(祭神 大山祇命)を合祀し三輪神社と改称す、明治五年三月三十日村社に列格せらる、明治四十二年五月九日境内鎮座荒木神社(祭神 健御雷命)を合祀す。
御祭神:大穴牟遅神、少名毘古那神、健御雷命、宇賀魂命、大山祇命

引き返し、R373号を進んで行くと前方右手に旧道?、右折して進んで行くと左手に木造新築の智頭中、反対側の狭い道を登って行くと右手に
上市場神社
689-1402_上市場神社page
鎮座地:鳥取県八頭郡智頭町智頭999
由緒:山城国(京都)八坂神社の牛頭天王を勧請して祀ったのが始まりとされる。広峯神社の関係古文書に応永六 (1399) 年まで、当神社の存在をうかがわせる記述が見られるという。宝永七 (1710) 年の棟札に「「奉建立牛頭天王社一宇成就」との筆も見える。明治元年になり、滝大明神、境内稲荷大明神を合祀、上市場神社と改称された。大正五年諏訪神社に合祀されるも、昭和二十四年に元に戻された。(記事参考「智頭町誌」)
御祭神:不明

先へ進み、前方三差路を右手に進んで行くと右手に鳥居が、横に空地在り-鳥居を潜って進み左手に曲がって境内へ、今日は殆ど歩いてないので意外と距離を感じる
諏訪神社
689-1402_諏訪神社page
鎮座地:鳥取県八頭郡智頭町智頭227
由緒:弘安元年(1278年) - 信濃国諏訪大社の分霊を勧請奉祀し、「諏訪大明神」の社号で創建。天正11年(1583年)12月 - 羽柴秀吉の淀山攻略の兵火を受けて焼失。江戸時代 - 鳥取藩主池田家の祈願所となる。天明2年(1782年) - 柱祭りを開始。天保3年(1832年)11月 - 本殿を再建。慶應4年(1868年)8月 - 合祭神を期に「諏訪神社」に改号。明治37年(1904年)1月 - 幣殿・拝殿・釣殿を改築。
諏訪神社 は、蒙古来襲の頃、弘安元年(1278)に信州の諏訪大社の分霊をいただき、古くから軍神や鎮火の守護神として崇敬されてきました。現在の本殿は天保3(1832)、幣拝殿は明治37年(1904)に改築されました。また、諏訪神社の境内には欅の大木に混ざって多くの楓樹があり、その紅葉は壮観で、古くから紅葉の名勝地として地元に愛されています。
御祭神:建御名方神

智頭小前からR53号へ、時間も遅いので少し寄り道しながら帰宅することに、橋を渡りR53号を南下することに

R53号を進み前方『土師駅』の手前『埴師』信号を左折し前方2番目の道を左折して進んで行くと右手に
土師神社
689-1433_土師神社page
鎮座地:八頭郡智頭町埴師1242
由緒:古来より十二社権現として、紀州-熊野神社の分霊を勧請して建立されたという。明治元年、北谷神社-通称八幡社(香伝地)、竹花神社-通称荒神社(下向)を合祀、後、対象五年までに買って神社(本谷)、木原神社(子守大明神)を合祀するに至って「土師神社」と改称した。
境内のおいて年代を確認できる造形物は、文政五 (1822) 年の神燈、寛正七 (1795) 年の手水鉢、拝殿前の天保十五 (1844) 年の神燈、社殿。狛犬は昭和九年奉納。
御祭神:不明

神社前の道を南西から南へ進み、前方右折して進みR53号へ、更に南へ進んで行くと左手に観光バスも停まれる駐車場が
河野神社
689-1434_河野神社page
鎮座地:鳥取県八頭郡智頭町三吉476
由緒:現在、この神社は若一さんともいい、およそ400年の昔より、手足・腰など身体に痛みのある人が奉納されている手形で患部をさすると霊験があると伝えられ、県外からの個人、団体の参拝者が多くあります。境内には祈願用の木製手形や足形が奉納されています。旧暦4月8日には神仏習合のお祭りが行われます。
元来4社であったものが、大正5年(1916年)9月7日に合祀、現在地に移転建立され河野神社と命名された。合祀の理由は神社の維持費用負担が各社では賄いきれないためであった。神社の名は当神社の神職・河野氏に由来する。この河野氏は伊予国湯築城主の家系であるとされる。
広峰神社:天平18年(746年)播磨国広峰熊野神社を町内山田に勧請した。牛頭天王社と呼ばれた。宮国神社:紀伊国熊野神社を町内十日市に勧請した。若一王子権現と呼ばれた。檜神社:町内三吉大坪にあった。火退火明神と呼ばれ、火除けの神として信仰された。聖神社:町内慶所にあった。聖大明神と呼ばれた。
御祭神:須佐男命、忍穂耳命、大己貴命、彦火々出見命、大山祇命、火産霊命、宇賀魂命の7柱。
参詣していると宮司さんに、色々なお話が聞けそうだが、時間があまりにも遅い、少しの資料を頂いて早々に退散?、美作に関係が深い神社で、暇を見つけてもう一度?、結構県外の人が多いらしく、タイミングはあるだろうが

R53号で『黒尾トンネル』を抜け岡山県へ、ループ橋を経て奈義町『豊沢』信号を左折して353号へ、前方左折して51号へ、南下を続け前方に7号、右折して7号、R429号、51号と進み朝来た道へ、同じコースで帰宅の途に