岡山も今週末から天気が悪くなりそう、思い切って出掛けることに、方向は悩んだが前回の続き?、と言うより上月から三日月へという感じで、前回勘違いして進んだ方向を極める。
先日同様、R2号で県境を越え、前方左折して5号を進み、上郡駅の手前で左折して北上し、少し走った先右折して隅見橋を渡り、前方R373号を北上し、久崎三差路を右折して368号を進み、三日月方向へ。
同じコースなので何も考えなくR373号から368号を進み、勘違いから三番目の神社へ、368号から前方『中島』信号で右折して進んで行き米田集落へ入った処、左手のV字路坂道を登り、直ぐ右折して坂道を登った右手に鳥居、その前に車を停め参詣
八幡神社
由緒:創立年月不詳。初め米田村字寺山に鎮座せられしも文治元年(1185)故ありて今の地に遷座せらる。江戸時代若宮大明神と称し、延宝4年(1676)本殿を建立し、弘化元年(1844)本殿覆、幣殿を建立する。明治7年(1874)2月村社に列し、同40年(1907)村社八幡神社以下12社を合祀し、大正5年(1916)拝殿を建立する。
御祭神:応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、仁徳天皇
ここで初めて予定の神社を飛ばしているのに気が付き、先ほどの『中島』信号まで引き返すと橋を渡った前方に
左折して368号を少し戻った右手に鳥居前に行く道が、不安なので県道の近くに車を停め参詣、
位守神社
由緒:不詳
御祭神:仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇
帰りは鳥居前を右手に進むと県道へ出る
368号を引き返し前方左折して449号を進み、前方右にカーブする路肩に車停め、直進した先を目指す
八幡神社
由緒:創立年月不詳。羽柴秀吉毛利軍を攻むるや毛利軍当社に隠れ社後山頂に於て鏖殺せらるという。天正年間(1573~1591)社殿を再建し、延宝7年(1679)本殿を建立す。享保元年(1716)同殿を再興し、天明5年(1785)1500年祭を行う。享保9年(1724)本殿及び本殿覆を改築す。明治7年(1874)2月村社に列し、同31年(1898)幣殿、拝殿を改築し、同40年(1907)社務所を建て磐筒男神社以下12社を合祀せり。
御祭神:応神天皇、仲哀天皇、仁徳天皇
『中島』信号からの道を東方向へ進んで行き前方姫新線を越えて道が右へカーブする処を直進した突き当り、手前のろかたへ車を停め
吾勝神社(6319054)
由緒:不詳
御祭神:天忍穂耳尊
線路沿いに進んで行き、前方左にカーブする処を直進して線路を越えて直進、突き当りを左折、直ぐ右折して坂道を登った突き当り左手に広場(入れないが)路肩に車を停め前方を登って行くと防護柵、開けて登って行くと車道-先ほどの道の少し北側にある車参道-遠いとは思うが通行量の少ない坂道歩いて進んで行くと左手に-予想通り結構な距離!、V字に曲りくねった坂道、道幅は結構広いが歩くか車かは悩む処、この集落で出会った人に聞いたが耳が遠く詳しい事が聞けなかったので歩いた。
八幡神社
由緒:創立年月不詳。慶長年間池田輝政八幡神社地として境内を除地し宝永元年(1704)本殿を造立す。安永5年(1776)本殿、拝殿の位置を現在の如くに改め嘉永元年(1848)本殿の屋根替を行う。明治7年(1874)2月村社に列し、同36年(1903)本殿屋根替を行い同40年(1907)八幡宮以下9社を翌41年(1908)荒神社を同42年(1909)山神社を何れも合祀せり。大正9年(1920)本殿を新造し昭和3年(1928)社務所を新築する。
御祭神:神功皇后、応神天皇、仲哀天皇、素盞嗚尊、大山祇神、菅原道真、大己牟遲神、天照大神、水都波能女神
最初に突き当たった道を右折して北方向へ進んで行くと前方に姫新線、更に進み、突き当りを右折して進んで行くとR179号、右折して進み、前方左手の道を左折、突き当りを右折して進んで行くとR179号へ出る手前の左手に
十二世神社
由緒:本社の創建は三百数十年の由と伝ふるものの年月日は不詳なり。元禄4年(1691)3月を吉祥日として大改修をなせし事は現存せる棟木によりて明瞭なり。神祇全書に曰く「天一神王神社今東新宿村有称阿布酔良権現社此乎」配祀の神々は明治40年(1907)7月13日合祀許可あり仝年10月23日合祀す。当社は代々三日月藩主の信仰特に篤く享保10年(1725)乙己季秋上澣には領主源長記の大鳥居寄進ありたり宝永7年(1710)庚寅夏4月28日新宿村氏子より大釣鏡を奉納す。
御祭神:国之常立神、意富斗能地神、大斗乃辯神、正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊、豊雲野神、淤母陀琉神、阿夜訶志古泥神、天津彦彦火瓊々杵尊、宇比地迩神、須比智迩神、伊邪那岐神、伊弉那美神、彦火々出見尊、角杙神、活杙神、天照大神、彦波瀲武咩咩羽葺不合尊、素盞嗚尊、神功皇后、天穂日命、磐筒男命、倉稲魂命
R179号を東へ進んで行くと前方左手丘の上に学校、「味わいの里三日月」の案内がある処を左折して学校の北側を廻り込む感じで進んで行き、突き当りを右折して進むと左手に、前に駐車スペース-更に先に行った『三日月藩陣屋跡』の手前に車参道
日岡八幡神社
由緒:伝えいう山城国石清水八幡宮より分霊を勧請すと、元暦2年(1185)正月9日八幡宮寺神領として船曳庄の見えたれば同庄鎮守として当社の信仰篤かりしを知る。降って永正13年(1516)船曳庄より公用130貫文のあるより推考するに石清水との交渉久しきに渉るを知る。寛永元年(1624)7月16日神社西方山林畑を開墾せんとして山林柴草を刈取り焼却の際、火社殿に移りて焼失する。明暦元年(1655)本殿を造立し延宝3年(1675)、享保5年(1720)、宝暦5年(1755)、明和7年(1770)、天明2年(1782)、寛政5年(1793)、文化元年(1804)等に本殿の屋根替を行う。天和3年(1683)拝殿を元文元年(1736)幣殿を何れも再建せり。嘉永6年(1853)本殿を修理し、爾来今日まで再三之を行う。猶領主森俊春元禄12年(1699)美作国津山城より当地に移封せらるるや居城を当社境内に選定普請せられたる関係上、崇敬特に厚く建造物其の他種々寄進あり。明治7年(1874)2月郷社に列せられ同40年(1907)宿居神社以下31社を合祀せり。
10月15日の近い土日に神輿4台が古式により、渡御式を行い、宵宮は御旅所に駐輩、本宮に還幸になります。還幸には近隣の氏子、集落より屋台が御旅所に参集し還幸行列に従行し、町内を練り祭典を祝います。又、境内においても、獅子舞、屋台練り等の奉納行事が盛大に行われます。
御祭神:仲哀天皇、神功皇后、応神天皇
階段の途中左手に「高良神社」あり
直ぐ東側に
列祖神社
由緒:列祖神社は森家の祖、美濃国金山城主森可成、津山藩祖森忠政、三日月藩祖の三霊を祀る神社で、江戸時代は武蔵国目黒行人坂(現・東京都目黒区)にあった三日月藩邸に祀られていました。明治維新後、明治3年に当地に社殿創立、明治14年には拝殿、幣殿などの建物が建築されました。地元ではこの社を列祖さんと呼び、旧藩士で結成された祖霊社保存会では4月9日を祭日として祀られています。
御祭神:森可成(美濃国金山城主)、森忠政(津山藩祖)、森長俊(三日月藩祖)
隣に三日月藩陣屋跡、境内に旧広業館・乃井屋陣屋藩主庭園跡が見られる。
陣屋前から南方向へ進んで行くと154号、右折して進むと前方にR179号左折して南東方向へ進んで行き、旧道を走る予定だが行き過ぎ、先の左手のV字の道を進み、前方T字路を右折、次のY字路を左手に進むと左にコンクリート坂道、U字に曲がって進んで行くと境内に-かなり急峻な坂道、一瞬止かと思う、後で分かったが西側に参道、しかしこちらもかなり急な山道
磐筒男神社
由緒:無格社(兵庫県神社誌)
御祭神:磐筒男命
これ以上進むとたつの市、引き返し北西方向へ
R179号を北へ進んで行くと右手山腹、福仙寺脇に
稲荷神社(福仙寺)
由緒、御祭神共に不明
R179号を三日月駅から北西に進んで行き、坂道を下って集落に入る手前を右折して進むと右手に標識、右折して進むと左手に、コミュニティセンターと広場、ここに車を停めて、先ほどの案内に従って山道を登って行くが、ここもかなりシンドイ
山王七神社
由緒:無格社(兵庫県神社誌)
御祭神:大己貴神、素盞嗚神、菅原道真
前記神社参詣途中に見えていた方向へ、西へ進むとR179号へ、右折して進んだ先、トンネル手前で右折して53号を進み、前方Y字路を左手547号を進み、その先の左手のT字路を登って行くと右手にコンクリートの道、手前の路肩に車を停めて参詣-車でも可能だが防護柵があり手前に車を停めた方が賢明-先日もそうだが防護柵の先でUターン可能なのに出来なかった事が何回かあり、バックは下手なので早めに車を停める習慣にしたい?希望?
三社八幡神社
由緒:創立年月不詳。本殿及び本殿覆を文化5年(1808)2月に建立。明治7年(1874)2月村社に列せらる。同30年拝殿を建て同40年荒神社以下7社を合祀せり。同40年(1907)徳久村下徳久字北山より現在地に遷座す。
御祭神:誉田別命
前に進んで下って行くと53号へ、北西へ進んで行き『若あゆランド』への橋の次の橋を渡り直進して進み突き当りを右手に進んで行くと左手に階段、防護電線が張られている。
吾勝神社
由緒:創立年代不詳なれども幣殿屋根瓦に正徳元年(1711)8月とあり。明治7年(1874)郷社に列格、大正4年(1915)12月9日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。昭和21年(1946)太平洋戦争終戦と共に法人となる。昭和27年(1952)7月1日に法人設立す。
御祭神:天忍穂耳尊、素盞嗚命、大国主命、応神天皇、菅原道真、磐筒男命、武雷神
先程の三差路まで引き返し、反対方向へへ進み、この山の北側で左折して北へ、次の交差点で右折して進んで行くと左手に鳥居、無難に早めに車を停め歩いて参詣-防護柵は覚悟していたが、その先の山道もかなりのしんどさ、早めに社が在りここで終わり?と一瞬考えたが登って行くと先に
天一神社
由緒:創立年代不詳なれど延喜式神名帳に佐用郡二社佐用比売神社・天一神社とあり延喜年代の宮席あり、正しくは天一神社と云う。鍛冶の神、職業神、銅剣(県指定重要文化財)は明治20年(1887)頃平松の「ゴロウ」と呼ばれる所から発掘され、弥生時代に大陸から渡って来たもので圃場整備の時に数々の土器が発見された。
御祭神:天御中主大神
最初の道路脇の案内に「弥生時代」からとあり、山頂近くの神社には詳細の記載案内がある。
53号を進んで行き右手に西徳久簡易郵便局先の右手の橋を渡り前方斜め左手にゆっくり進ん行くと左手奥に鳥居-実際は一度見落とし引き返す、道路脇の私有地へ車を停めたが、車でも可能、一部未舗装だが境内に乗り入れ可能
吾勝神社(6319058)
由緒:創立年月日不詳なるも元文5年(1740)申の年12月と明記したる石燈篭あり。明治40年(1907)8月同徳久字東徳久鎮座吾勝神社に合併せられしを昭和21年(1946)8月8日東徳久より分社創立再認許せらる。
御祭神:吾勝々速日天忍穂耳命、素盞嗚尊
53号を更に北へ進んで行くと前方に漆野公民館、反対側の橋を渡って前方左手にカーブして坂道を登って行くと集落に、基本的に直進すると集落を抜けて田圃の真ん中へ、右折して前方のT字路を右折して進み、突き当りを左折して進んだ突き当り-Uターン出来なかったとは思ったが思い切って-前が広場で安心
松尾神社
由緒:不詳
御祭神:大山咋命
この神社は殆ど諦めて帰る途中、母娘連れに出会い聞くと神社はあるが説明し難いとの事、航空写真で場所を訪ね分かる-この方法は良いが上からの写真に慣れてないと難しいか?
53号へ戻り、少し進んだ先を左折して進み左にカーブしながら進んで行きと小山の北側へここに山道があるので登って行くが少し急なので諦め、航空写真で見た南側からのコースを、細い道を進んで行きUターン可能な処へ早めに車を停め、左手のコンクリートの道を登って行く距離、勾配とも結構きつい-車でも可能だったが無理をせず運動?
八阪神社
由緒:不詳
御祭神:伊邪那岐命、伊弉那美命
集落の真ん中にある山の上なので色々な参道が在るようだがどれもかなり急
時間的には少し早いが山道の登りは疲れる、帰宅することに、ルートははやり来たルートと同じが無難