車をガードレールにぶつけてから何故か出かける気が起きないし、近距離に適当な神社が無いのも関係しているか!
久しぶりというわけではないが播磨の国、赤穂市を目指す。R2号を東へ進み、前方『閑谷』手前で右折して261号、少し先のY字路を左手細い道を進んで行くと右手の新幹線を潜った処に神社
不明神社
由緒、御祭神共に不明
少し引き返し新幹線の一つ北側の道を進み、集落の外れ附近の広目の路肩へ車を停め歩いて参詣-車でも可能だが少し狭いし、先でのUターンを考慮すると歩いた方が無難
荒神社
由緒、御祭神共に不明
前方右手に進み、新幹線を潜って進むと前方に262号、左折して進んで行くと前方に260号、右折して進み、その先を左にカーブしてみちなりに進んで行くと前方に397号、直進して進んで行くと前方にR250号、左折して進んで行くと県境、播磨の国へ、250号を進み前方法光寺先を左折して進み、福浦東集会所へ車停め歩いて北側を目指す-実際、歩いたが車でも狭いが可能、神社前に空地あり
正八幡宮
由緒:不明
御祭神:仲哀天皇、応神天皇、神功皇后、彦火火出見尊
先へ進み、前方小さな川を渡って直ぐ右折して進むと、R250号、更に南へ進んで行くと赤穂線、更に進んで行き、川に沿って南東へ、前方Y字路を左手に進んで行くと左手に石柱、近くに車停め歩いて参詣-集落裏の小山にあるが参道は未舗装だが整備されている。
龍神宮
由緒:創立天和2年(1682)、旧藩主池田侯閑谷黌学田として新田開墾し、本郡閑谷村より人民を移転移住せしめしに依り、産土神同郡木谷村天神社末社を遷座奉祀し(池田家所蔵文書)氏神として崇敬厚く今日に及べり。神社名は旧号龍宮、明治2年(1869)龍神社と改称(池田家文書)
御祭神:綿津見神
250号へ引き返し、東に進んで行った先、小さな川の手前を左折して進んだ先、前方に見えるので右方向へ進むが先が狭い坂道、手前に停車し歩いて参詣、Uターンはちょっとしんどい!-左手寺側から廻った方が楽-神社前下側の処が少し広い-秋祭り前か夫婦連れが清掃していた
荒神社
由緒:不詳、無格社(兵庫県神社誌)
御祭神:応神天皇、素盞鳴命
250号を進み、『天和』駅先を左折して進んだ左手奥、Liquor shop Shimizuの側の道を進んだ突き当り、手前の路肩へ車を停め歩いて参詣したが手前に空地があるが大した違いはない
天和荒神社
由緒:不詳、無格社(兵庫県神社誌)
御祭神:素盞鳴命
前方右折して前方250号へ、左折して進み、『恵照院』先、橋の手前の信号を左折して進んだ左手-前に空地在り
八幡神社
由緒:不詳、無格社(兵庫県神社誌)
御祭神:応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、素盞鳴命
実際は通り過ぎ、川の手前を曲がって予定の道へ出る、後でストリートビューで見るとお寺に赤い鳥居が見られる、もし今後近くを通ったら確認
250号まで引き返し、250号をを進み、『七軒屋』信号を左折して進んだ左手、強引に奥まで進んで行ったが神社前に空きスペース(私有地?)
木生谷三宝荒神社
由緒:不詳、無格社(兵庫県神社誌)
御祭神:素盞鳴命
この地域の神社には義士画像図絵馬が多いが、ここはには赤穂市指定有形文化財の表示あり
250号を進み、前方左折して96号を進み、前方山陽自動車道手前の右手の橋を渡り進んで行った先、前の道路は幅広い
森吉稲荷神社
由緒、御祭神共に不明
和気清麻呂公が宇佐八幡宮へ参向した帰途、同宮の分霊を勧請したと伝える。当地はそのころ海に接し、港があった。八幡神社の手前の森吉稲荷大明神の境内に、公が船をつないだという松が残り、昭和五十一年、「和気清麻呂公御舟寄松」の木標が建てられて、横にある格子戸のついた建物の中の松の切り株がそれらしいと近くで会った人に教えられるが、聞き取りにくく稲荷との関連は不明
直ぐ先を左折して坂道を登った先、参道横の大津中央集会所前広場に駐車可能。
大津八幡神社
由緒:神護景雲3年和気清麻呂勅使として豊前国宇佐八幡宮へ参向し其の帰路此の地(当時大津は広き入海なりしと云う)に船を泊め宝祚無窮の為、宇佐八幡宮の分霊を勧請奉斎せられたるに創まるという。朱雀天皇承平4年(934)海賊の御祈に依りて山陽南海10石18ヶ所の神々臨時奉幣使を遣されし神社の一つなりと伝う。降って関ヶ原合戦の時、浮田秀家の兵来りて社殿に火をかけ烏有に帰せしめ江戸時代領主より毎年歳首に金100疋を奉納ありて国家安全の祈祷神札を献納す。 明暦2年(1656)本殿を再興し弘化4年(1847)本殿屋根替を行い、明治7年(1874)2月(明治6年(1873)11月とも)郷社に列せられ同42年(1909)幣殿拝殿を改築せり。
御祭神:応神天皇、仲哀天皇、神功皇后
ここで例によっての勘違い250号線沿いの二つの神社(日吉神社、荒神社)を参詣忘れ-再度こちら方向へ来る必要あり!
96号を引き返し、250号を南へ進み、標識に従い赤穂城跡方向を目指す-250号から右手直進、前方の信号を左折して直進、城跡の横を通り過ぎ前方橋の少し手前で左折、神社の位置を確認し路肩に車を停め参詣
恵美須神社(蛭子神社)
由緒:不明
御祭神:事代主命
少し北方向へ
大神宮
由緒、御祭神共に不明
前の道を北東へ進んで行くと赤穂市文化会館手前の右手に
稲荷神社
由緒:不詳、無格社(兵庫県神社誌)
御祭神:倉稲魂命
川まで進み右折し、その先の橋を左折して進んだ左手に、駐車スペースは十分
赤穂八幡宮
由緒:勧請は室町時代応永13年(1406)である。江戸時代寛永15年(1638)に垂水半左衛門奉行として社殿を再興する。正保2年(1645)浅野長直公年三十石を朱印する。延宝7年(1679)浅野長矩公再建。元禄元年(1688)、浅野長矩公を始め家中、氏子、神輿を始め祭器を奉納。貞享4年(1687)大石内蔵助石灯籠を奉納。享保3年(1718)現在の本殿建立。明治元年(1868)神仏分離令により如来寺独立。元禄15年(1702)義士討入後、「大石内蔵助妻りく」より八幡宮別当寺神宮寺の僧に御祈願の礼状届く。大正2年(1913)本殿檜皮葺替工事、昭和35年(1960)本殿檜皮葺替工事、昭和52年(1977)拝殿瓦葺替工事、平成15年(2003)本殿銅板葺工事。
頭人・獅子舞・神輿・屋台の順序で神社を出発し太鼓橋、広前で練り、その後「お旅所」である「ノット」まで行列を組んで進む。現存する古文書で最も古い頭人の記録は、寛文元年(1661)かめや六右衛門である。獅子舞は兵庫県指定重要無形文化財である。
御祭神:応神天皇、仲哀天皇、神功皇后
前の道を南へ進んで行き2本目を左折して進んだ右手
宝崎神社
由緒:神功皇后が三韓征伐の帰りに海が台風で大荒れになり、難破寸前の時、その近くの岩に船を繋ぎ、波の静まるのを願って「祝詞」を唱えられました。するとたちまち波は静まり、船を進めることができたといいます。そのため、この岩を「のりとの岩(ノット)」といわれるようになりました。-これを祀っているのかは?-赤穂八幡宮の御旅所
御祭神:不明
459号、32号を経由して赤穂御崎を目指す(無難にカーナビ使用)、かなり手前から祭りの旗が立てられていた。神社前に駐車場
伊和都比売神社
由緒:当社は今を去る1000余年前平安朝の延喜式神名帳にその名を記載する古社で伊和都比売大社はもともと伊勢外宮の豊受比売とも云われ、また播磨国一宮の伊和大神即ち大穴牟遅神の比売神とも云われ古くから御崎明神と称せられた赤穂民族の祖神である。もとは大園と呼ぶ前方海上の八丁岩の上にお祀りしてあったのを天和3年(1683)浅野内匠顕長直が現在の地にお移ししたもので「播磨なる御崎の石だたみ海の底まで行くぞ見る」と歌われているように奇岩の上に老松が舞い岩礁の地である。かつては日本海々戦の勇将東郷平八郎元帥を始め歴代連合艦隊司令長官の崇敬厚くしばしば艦隊を率いて帝国海軍の勇士が参拝し、現在でも船員漁師など航海安全と大漁祈願はあとをたたず遠近からの信仰は盛んである。なお特に珍しいのは古くから若き男女による姫神信仰が盛んで、縁結び或いは恋人を得るにご利益のある「姫守」をうける人が多く御崎の景色と共に近時有名である。
10月体育の日の前日、早朝より獅子舞は各地区での町内舞、希望者の各戸舞、子ども屋台は町内を隈無く巡行します。午後より境内では奉納剣道大会。夕方には獅子舞、子ども屋台の宮入りで賑わいます。
御祭神:伊和都比売神
面倒なのでカーナビでイオン赤穂店へ、250号を東へ進み、前方を左手に進み橋を渡った先の右手奥-新しい道を工事中か、手前から十分に見える
春日神社
由緒:不詳、無格社(兵庫県神社誌)
御祭神:建御雷命
前の道を北東へ進んで行けば問題ないが、まだ工事中で通行止め、ややこしそうなので一旦土手沿いの250号を進んで行くが左手の降りる道がよくわからない、『坂越橋西』信号で左折して進み、駅手前の広い道を左折して進んで行くと前方左手に
北野中天満神社
由緒:不詳、無格社(兵庫県神社誌)
御祭神:菅原道真
神社前の道を北東へ進み、前方の広目の道(T字路)を左折して進み、線路を越えて進んだかなり先-神社前にはUターン可能なスペース
砂子荒神社
由緒:不詳、無格社(兵庫県神社誌)
御祭神:素盞鳴命
引き返し広い道を北東へ進んだ左手に見えるので右手『赤穂仁泉病院』に車を停め参詣
三宝荒神社
由緒:不詳、無格社(兵庫県神社誌)
御祭神:素盞鳴命
神社前の道を北へ進み、少し走った前方小さな十字路を右折して赤穂線を潜って進み、前方工事中の為右折して進むと広い道、左折して東へ進み、前方の橋(250号)を渡り右折して川沿いに進み、直ぐ先を左手に折れようとするが、狭そうなのでその先の『坂越三差路』を左折、直ぐ左折して進み、前方突き当り付近に車を停め山際の神社を、
三宝荒神社
由緒、御祭神共に不明
先程の道まで引き返し、左折して坂越港方向へ進み、突き当りを左手に進んだ左手、今回は祭りのせいか神社へは車で入れなかったが、正面に赤穂市坂越駐車場が(参拝者が多い為)-神社前の公園はチェーンが張られ入れない
大避神社
由緒:ご祭神秦河勝公は、中国より渡来した秦氏の子孫で、氏の長として数朝に仕え、特に聖徳太子に寵任された。河勝公は、会計制度を起し、外国使臣来朝の際の接待役等多くの功績を残されている。太子より仏像を賜わり太秦に広隆寺を建立された事は有名である。また、神楽を創作制定され、今日では楽家の祖、あるいは能楽の祖として崇められている。河勝公は、皇極3年(644)に、太子亡きあとの蘇我入鹿の迫害をさけ、海路をたよって此々坂越浦にお着きになられ、千種川流域の開拓を推め、大化3年(647)に80余歳で薨ぜられた。河勝公の御霊は神仙化とし、村人が朝廷に願い出、祠を築き祀ったのが大避神社の創建と伝えられている。一方近在の村々30余ケ村に、ご分社を祀り開拓神として今日も信仰されている。更に、河勝公の後裔である秦・川勝・河勝家の人々の崇敬をいただき、近年では航海安全はもとより、災難ざけ守護神として交通安全、厄除の神社としても信仰されている。
坂越の船まつりは国選択無形民俗文化財・用いる船は県指定有形民俗文化財である。12隻余りの祭礼用和船が生島(国指定天然記念物)にあるお旅所までを、神輿船を中心に渡御する。350伝統があり、瀬戸内三大船まつりに数えられている。神社下の浜辺で、神輿を船に乗せるためのバタ板の橋架けの練りが勇壮に行われ、艤装し飾り立てた船に獅子舞、頭人、楽人、供奉員等が乗船し出航する。先頭は昔の千石船の伝馬船である櫂伝馬2隻が曳航し、獅子を舞い、雅楽を奏でながら1時間余りの船渡御をし、お旅所祭の後、夕暮れには船に提灯を掲げ、陸にはかがり火を焚き、美しい幽玄の世界の還幸がなされ、他に類を見ない祭である。
御祭神:秦河勝、天照皇大神、春日大神
この地方に『大避神社』が多い理由が分かった感じ、多少の日本史には自信があったのだが!、また、随身門の後ろ側に仁王像が神仏混合の名残らしく、背後の山頂の妙見寺まで車でも可能なようなので行ってみるべきだったか?
ここでも予定の荒神社:赤穂市坂越を忘れる
元の千種川の橋まで戻って渡り、左折して90号を進み前方左折して進み、突き当りを右折して進み、お寺の先のY字路を左手に進み、前方のY字路を右手に進み集落へ、神社手前に車参道が、ここに車を停め参詣-近づくと正面に神社が見えるので
大避神社
由緒:不詳、無格社(兵庫県神社誌)
御祭神:秦河勝
前の道を東方向へ、前方三叉路を左手に小さな川沿いに北へ進んで行き次の集落で左折し、入り口近くの路肩に車を停め歩いて神社方向へ、入り口に防護柵が、鍵が掛かってないので歩いて進んで行く先に-コンクリートで舗装された道だが狭く、ガードレールも無く危険、しかも神社手前で車止め、車で行くと!思うだけで背筋が寒くなる-北側から行けば問題ないのか?
荒神社
由緒:不詳、無格社(兵庫県神社誌)
御祭神:素盞鳴命
東へ進み前方の広い道を左折して北へ進むと前方に90号、更に北へ進んで行くと前方左手にトンネル、左折して90号を進み、新幹線を潜った先を左側を下り、左折して進み突き当りを右折した集落を進んだ左手先
天満神社
由緒:不詳、無格社(兵庫県神社誌)
御祭神:菅原道真
前の道を山際に沿って進んで行くと前方に90号、この地点で左折して進んで行くと右手に『平野ブロック』正面に防護柵、ここに車を停め鍵を開けて進む
大避神社:兵庫県赤穂市中山531
由緒:不詳、無格社(兵庫県神社誌)
御祭神:秦河勝
ここでバッテリー切れ、どうもこの方面はトラブルが多い?-今度の機種はいきなり使用不可になるのか?
時間的には良い時間だが途中の神社へ寄れない、北へ進みR2号で通常のルートで帰宅、結構スムースに!