2号線を西へ高梁川手前の『大西』信号を左折しR429号を進んで行くと前方左手に神社が見える。先の道を左手に降りて直ぐ左折した辺りで車を停め道を探すがまるで分からないやっと出会った人に聞くと、この道を進み橋を渡って引き返すとのこと、しかし橋は工事中、その先の橋は狭すぎて車の通行は?ずっと先の橋を渡り西方向へ引き返す、神社前に駐車場はあるが、神社手前の道が狭い、引き返して429号を進む(帰って地図を見ると降りた辺りの車停め、前方に歩いて進み、橋を渡り行くのも手か?)ここで会った近所の人が話し好きで、次の予定があるので慌てる。親鸞に関係する神社らしいが詳細は不明、と引き返すしかないとのこと、橋まで引き返し左折して進むとR429号
七面大明神
由緒、御祭神共に不明
R429号を進み、前方左に降りる道を進み、先を左折して小さな橋を渡り道なりに進むと正面に、参詣は東側から、早めに西側の430号へ出る
嚴島神社
由緒、御祭神共に不明
R430号を南へ、右折が430号、左が428号、真ん中の川沿いの道を進み、嘉永橋信号の先を右折して西方向を目指すと前方に
猿田毘古神社
由緒、御祭神共に不明
少し引き返し、川沿いに南へ進み信号を右折し進み前方にある信号を左折して進むと右手に
寅崎神社
由緒:創建は文化元年(1804年)10月23日である。鶴新田開発の際、祖神として本町矢柄八幡神社の御分霊を奉祀した。八幡神社は寅の方角に当たるので、寅崎八幡宮と称したが、明治7年神社取調の際から寅崎神社と改称し、同32年村社に列格した。
御祭神:仲哀天皇、応神天皇、神功皇后、帶中津彦命、帶中津姫命、品田別命
前の道を南東へ進み『鶴新田中信号』を右折し道なりに進んで行くと7&11の処で398号へ出るので横切って道なりに進むと430号、横切った先の右折した先の左手
地神社
由緒、御祭神共に不明
R430号を南へJFE北門手前の左手に
海神社
由緒、御祭神共に不明
R430号を東へ、亀島橋を左折して進み、前方亀島信号を左折して少し進み、左手に登る道があるが車止め、歩いて登って行くと右手に、前方にも車止めがあるが向うには車が停めてあるので途中の左手に『亀島山花と緑の公園』左折して公園内を行けばいいのか(車止めと一方通行注意が必要)
福喜神社
由緒、御祭神共に不明
西方向へ、そして南方向へ進み430号へ
R430号を東へ、ネッツ先の信号を右折少し先『丸口重機』先を左折して進み、三叉路を右手にとり進み小さな川の左折して(右手郵便局)進むと左手に神社
素盞鳴神社
由緒、御祭神共に不明
素盞鳴神社の川をはさんだ東側に
中畝神社
由緒、御祭神共に不明
前方へ進むと左折しか出来ないので元の道(郵便局)まで引き返し、東へ進み直ぐ左折すると430号へ
R430号を東へ、『東塚一丁目』信号手前を左折、北へ進んで行くと左手に
由加神社
由緒、御祭神共に不明
神社前を北方向へ進むと428号東塚5丁目信号へ、東方向、池に沿って南東へ進み、『樋の輪』信号で左折した辺りへ車を停め、歩いて前方高台を
白城神社
由緒、御祭神共に不明
元へ戻り428号を南へ進んで行くと広江一丁目信号へ、左折して62号を東へ進んで行くと広江六丁目を右折して進んで行くと前方に空きスペースと左手に道と『天石門別保布羅神社』の案内、坂道を登って行くと前方に鳥居、少し先に駐車スペース
天石門別保布羅神社
由緒:創建は天承元年(1131年)であるが、大永年中(1521〜28年)火災のため古文書を失った。元広江矢の鼻と云う地に氏神として建立せられ、建長年間(1249〜56年)に現在地に奉遷した。承久の乱に頼仁親王が児島に流遷せられ、玉島で妃がご出産ののち逝去せられ、此地に御在住になった親王は氏神である当神社に祈願せられた。もと福田町内の五か村の氏神であったが、近時は大氏子と称するに至っている。
御祭神:天手力雄命
430号まで引き返し南へ、真言保育園手前を左折した処に空地、、車を停め歩いて参詣(距離が短いのでこのコースが-430号の先を左手Vの道を山際に北へ進むより楽か)
呼松八幡神社
由緒:嘉暦元年(1326年)8月15日の創建と伝えられ、毎年正月元旦払暁、氏子が多数参籠し、この故事を謡い、古式行事を行い、その年の安全と氏子の繁栄を祈った。これを早奏と呼び當神社の特殊神事である。創建以来670年余となり、旧福田地区に於いて最も古い神社と言われている。水島地区の発展に伴い八幡神社を尊崇する人たちが増えている。
御祭神:応神天皇、仲哀天皇、神功皇后
南へ進んでホームプラザナフコの先『王子ケ岳』の標識で左折し少し進むと広めの路肩へ車を停め、左手山際を目指すが小さな川に阻まれ、少し引き返し山際を目指す
荒神神社
由緒、御祭神共に不明
R430号へ引き返し、南へ進むとバス停、直ぐ先を左折すると空地、車を停め左手山際を探す(地図上では430号に近いが実際はかなり北東方向から廻り込む必要があり、先ほど車を停めた処から行った方が良かった、また一ヶ所狭い処があるが車で神社前まで可能)
住吉神社
由緒、御祭神共に不明
R430号を南へ進み、左手にホテル瀬戸大橋の先を右折して進むと右手に、神社横に駐車スペースあり
荒神宮
由緒、御祭神共に不明
少し北方向へ歩くと西方向の山側に長い参詣道
天神宮
由緒、御祭神共に不明
R430号を進み『高島口・倉敷シーサイドホテル』信号を右折して進み、突き当りを右折して進み、墓地近く広めの路肩へ車を停め左手山方向を探す(運よく農作業の人に出会うので聞くと丁寧に教えてくれる-大体の位置は水島信号所の塔があるので分かりやすいが道が問題-コンクリートで舗装された道を登って行くと前方未舗装の広い道を右折して登って行く)
産土荒神社
由緒、御祭神共に不明
『高島口』へ引き返し、430号を横切り東へ進み、『本荘小』東側を目指す(突き当りを右折して進み、次を左折して進み突き当りを右折、次を右折して進むと左手に-前の道は広く駐車可能)
塩生神社
由緒、御祭神共に不明
小学校前に道を進み、先を右折して進むと430号へ、南へ進み『通生浜』信号を右折直進し、突き当りを右折し港沿いに進んだ先、道なりに進むと神社前(港の一本奥の通りが参詣口で大きな鳥居がある)
本荘八幡宮
由緒:当社は大宝元年(701年)豊前国宇佐ノ宮よりの勧請と伝える。古来通生庄12ケ村の総鎮守として神宮寺の社僧が奉仕した。神宮寺般若院の旧記によれば、延暦23年(804年)坂上田村麿将軍が勅命によって喩伽山の賊徒を討ち、平定の報賽として神封150戸を寄せ、その後建治2年(1276年)新熊野山神領の分与が行われ(尊瀧院文書)、弘安2年(1279年)社頭80石の朱印状を受けた。室町時代の初め応永28年(1421年)、塩生の住人松井紀ノ義泰が石鳥居を奉納し、永享7年(1435年)より祭礼日を市日と定めて市を開いた。当日は馬場に於て流鏑馬も行われたので、近郷からの参拝者や商人で賑った。常山城主の三村上野介高徳は深く当社を信仰して奉幣を怠らず、弘治3年(1555年)木鳥居2基に名前を刻んで建立した。天正3年(1575年)當山合戦の前哨戦として通生の湊山城が吉川、小早川両軍の攻撃を受けて落城し、その戦火により八幡宮の社殿と神宮寺の堂塔は悉く炎上して烏有に帰したが、その年の末から同5年の間に全社殿再建復興された。慶長10年(1605年)下津井城主池田河内守長政が社頭25石を寄進し、以後歴代の岡山藩主もこれに則ったが、寛文6年(1666年)の神佛引き分けによって社領15石、寺領10石となり初めて祠官が任ぜられた。明治7
年(1874年)郷社に列せられ、昭和27年宗教法人になった。
御祭神:品陀別命、足仲彦命、息長帶姫命
中学生2人に聞くが神社はよく知っているようだが鳥居に関しては知らないよう
元の430号へ引き返し南へ進んで行くが予定したコースの処で脇道に入らず進んでしまう。時間も遅いので近辺の神社を巡り本日の予定とする。
430号を東に進み右手へ入り赤崎幼稚園前の駐車場に車を停め、歩いて山際を探す(幼稚園西の道を南方向へ進み最初の道を左折して進んで行くと南方向へ登る畑道を登って行くと右手に-最初金光教教会の裏に階段が見え、位置的にあっていたので進んで行くが道が無くなり強引に畑の中を進む-近くの人に詳しく聞くべきだったか?-二つ祠があり一つは飛び八幡と呼ばれ『新庄八幡宮』を分社したようである)
素戔鳴神社
由緒、御祭神共に不明
曇って来て時々雨も降る天気になったので余計に方向も分からなくなっているのか。少し引き返し、『菰池中央』信号(前方高架の手前)を右折、次の信号を左折して進み池の先の三叉路を右折して広めの場所へ車を停め、歩いて東から廻り込んで神社を目指す
三寶荒神社
由緒、御祭神共に不明
先ほど右折した21号まで引き返し、東へ進み『清楽寺』信号を左折し、前方左にカーブした左手奥に(路肩に車停め)
太宰天神社
由緒、御祭神共に不明
神社跡か墓地の上にあり、南麓に参詣道らしき感じもするが、やはり墓地の入口に見えないことも無い。
どうも一日の最後は方向感が鈍っている。太陽が見えないと余計に駄目になる傾向は変わらず。車のカーナビで帰宅するが、コースが西寄り2号線経由なので途中で62号-21号経由で帰る事にするが、試しに再度カーナビに従うがとんでもないコース30号線経由で帰宅するはめに。距離はともかく時間的にはどうだったのか?