どうも冬は寒くて天気が悪く余り出かけない。昨日は天気は良かったがが妻に付き合ったため、天気は曇りっぽいが風がないので西大寺永安橋を渡り、吉井川東岸の北方向を目指す。久しぶりに東山-西大寺線(県道28号線)を通り永安橋へ(やはりこの道は混んでいる)
永安橋東信号を左折進んで行くうと右手に神社が、北側の広めの路肩へ車を停め参詣する。
豊原角神社
由緒:本社の創建年代由緒等は不詳であるが、備前国神名帳(山本氏本)に、従五位上豊原角明神とあり、備前国古社128社の一つで式外の神社である。古くは豊原角明神と言われており、次第に白山権現と称えられるようになり、明治2年白山神社と改称、明治3年豊原角神社と旧社名に復したと思われる。『改訂邑久郡史』などに依れば、宇喜多家代々の崇敬が誠に厚く、社領は50石を賜わっていたが、慶長年中、小早川秀秋公に没収され、池田家よりは代々4石7斗9升9合を賜わった。更にさかのぼって中世の応永元年の頃神庫が火災となり、往古の記録が失われた事が記されており、このために何時の時代に、北陸の加賀国、今の石川県より、霊峰白山の神々を此の西大寺浜の地に(此の地は往古、古井川が瀬戸内海、見島湾に注ぐ河口であり、白砂の浜辺であった)何如なる理由でお迎え申し上げたかは、全くの謎である。但し、当神社の御神紋は非常に珍らしく「三子持亀甲風花」(みつこもちきっこううりのはな)と呼ばれ、実に石川県石川郡鶴来町三宮町鎮座の元国幣中社白山比め神社と同一であり、故に然るべき理由が有って神々を御勧請申し上げたかと思われる。更に『改訂邑久郡史』では、中世の神仏習合の時代には、神宮寺たる願満寺かあり、社僧が神職と共に奉仕していた事、或は又、当神社はもともと、豊村長沼字円定寺山の麓に鎮座していたが、これを一度、西大寺浜の下荒神の地に遷座、後の世に再度遷座して、円定寺山麓より4〜5町も離れた現在地に移された事、も述べられており、現在では、その真偽の程は明らかではないが、鎮座地の3度の変遷は、おのずと当神社の歴史の古さを物語るようにも思われる。
又、現存する棟札は、ほんの数枚を数えるのみであるが『改訂邑久郡史』『大正4年邑久郡神社詰』などでは、慶長17子年9月吉日 奉造営新宮六社権現本社 寛政元年9月吉日 奉建立白山権現 神職 祝部権之丞 寛政元年5月吉祥日 奉修葺白山権現御屋根 雨宮 祝部縫殿 等々、歴史を如実に物語る貴重な棟札が幾枚も存していた事が知られ、当神社の歴史を明らかにする上で、代々祠官として奉仕した、祝部家の系図の研究の大切さが、又、御祭神の名前決定の難しさが、よく理解されるかと思われる。
扨、昭和9年9月10日神饌幣帛料供進の神社に指定され、戦前は旧豊村の総氏神として仰がれ、又、殊に歯痛を和らげるに霊験あらたかな神として(ハクサン様→ハクサ様→歯草様)社頭の隆盛をみた当神社も、戦後40年余りに亘って、社殿、神域の荒廃がすすみ、(然し祭祀は厳修されていた)心有る地域の人々を嘆かせていた。昭和60年頃より昭和62年にかけて、建設省が施工した一級河川吉井川改修(新地提防)工事に、境内地の一部の譲渡を余儀なくされ、これを契機に氏子一同力を併わせて、社殿ことごとくを改築移転を為し、白壁、総銅板葺きの社殿が、昭和の大修復として美事に甦ったのである。更にその後、社務所も新築され、鎮守の杜の復活を念じて植樹も施され、御社頭は面目を一新し、秋祭りを中心に、年中行事には老若男女氏子挙りて参加する美しさ信仰も復活、此の有様を見て、神職総代一同一丸となりて、弥益々の御神徳の発揚を目指す昨今である。
御祭神:白山比め大神、大己貴命、少彦名命
西大寺と言っても吉井川の東岸か、結構広い境内である
北側の道を橋を渡って直進し、前方郵便局手前を左折直進し倉庫群を目指し、突き当たりを右折、左折して進み、次にある道を左折、突き当たりを右折して、その奥に神社が(倉庫群の北側を東方向へ進んで行くとみだり手に見えてくるので車を停めて歩いて)
八幡宮
由緒:創立年代、由緒等は不詳であるが、往古は西大寺窪八幡宮の御神幸所であったと云われる。又、近くの上寺山豊原北島神社の玉垣に川口の人々の名前が刻まれている事から、豊原北島神社との関係も注目され、同神社への参拝が不便なるが故に(往時吉井川が川口地区の東を流れ神崎に注いでおり、今の千町平野は海であった)川口地区にも八幡宮を祀ったと古老は口碑に伝えている。実に往時は、吉井川の河口に開けた集落ゆえに川口と呼ばれたのであり、附近の地名−豊原北島、豊原南島、神綺、浜、新地、新(しむら)−等々を総合的に考察すれば、かなりの古社である事がわかる。現存する棟札で最古のものは、文政4年のもので、文政4年辛巳年 奉建立 幣殿拝殿一宇 神職 柴俊治守貫 名主 片岡藤三郎 五人組頭 阿部十三郎 世話人 阿部良助 大工 安田常三郎とあり、文政4年巳年9月9日 阿倍 良介との古き石燈篭も存する事より、当時かなりの整備、改築が行なわれ、神職も柴家が代々奉仕していた事が伺われるのである。神社明細帳(明治初年版)に依れば、社鎖は6斗1升を賜わり、神職、柴啓治は先祖平左ヱ門より8代目である事などがわかるのである。更に 天保7年4月、石橋の寄進 阿部 良介 明治17年5月 本殿の屋根替え 明治42年10月 狛犬奉納 柴 葺四郎 大正7年1月 注連柱建立 柴 清七 昭和18年5月 本殿銅板葺替 氏子中 昭和47年10月 拝殿改築 氏子中 等々の寄進や修築がなされて来た事がわかるのであり、寛文年中に戸数70戸と文献に残る川口は、現在も80戸余りの氏子であるが、この小さな川口地区が、立派な氏神様を先祖代々守護して来た事は特筆すべきであろう。
御祭神:応神天皇、仲哀天皇、神功皇后
南東を目指して倉庫群を抜けると69号へ、北東進み、西大寺門前信号で右折し226号を進むと左手に『余慶寺』の表示、表示に従い左折して進み、多少曲りくねっているが突き当りが神社と寺院
豊原北島神社
由緒:舒明天皇6年(634)豊前国宇佐より勧請、神社東の鎮座石の上にわらをとき敷いて奉祀したことから、「ときわら」が荘名の「とよはら」となったと社伝にいう。北島は往古この地が島であったことを示し、豊原荘北島に座す神社で延喜式外の古社、従五位上豊原北嶋明神・上八幡大菩薩・正八幡宮ともいわれ、平安時代には近衛天皇の勅願所・白河・後鳥羽院領の鎮守神でもあった。平安末、山続きの今木城では源平合戦が行われ、また、源氏の武将佐々木盛綱は児島藤戸合戦の折、戦勝を祈願して甲胃・武具を奉納、鎌倉末から南北朝時代には児島高徳の同族といわれる大富・和田・射越氏などが氏子より興って南朝方として活躍した。社殿もこれらの兵火などによって焼失したといわれるが、領家・領主・氏子により造営・神領の寄進が行われた。現社殿は、本殿を大正8年に、他を昭和14年に昔の様式によって鎮座1300年を記念して改築した。
神社を中心に両側に寺坊の建ち並ぶ形は、平安時代の神仏習合(本地垂迹)の形をとどめている今では珍しい古い形で、神仏の分離は藩主池田光政により行われ、寛文6年(1666年)余慶寺本乗院良庸が還俗して神職となり代々相続している。六代業合大枝(なりあいおおえ)は、本居宣長・平田篤胤・藤井高尚の門人で歌人、国学者。「新学異見弁」・「古事記神代記新釈」などの著があり、境内に歌碑・神社東に旧宅がある。
明治3年豊原北嶋神社と社名を改め、明治4年郷社、明治41年神饌幣帛料供進神社となった。
御祭神:応神天皇、神功皇后、比め大神、豊原北島神、品陀和気命
寺社習合の名残、神社もかなり立派だが、流石お寺と言う感じもする。それにしてもかなりの数のお寺さんがあるものだ。
神社前を右手に進み、左折し、団地の手前を道なりに進む(最初の道を右折、左折し進み、三叉路を右折、広めの道を南方向へ)小さな川に突き当り、左折し進む、左にカーブして、北へ、三叉路を左手に、突き当たりを左折、次を右折して北上すると突き当りに鳥居が
大池神社
由緒、御祭神共に不明
簡単に見つかるつもりだったが違う道を通っていたのか全く分からなくなってしまった。曇り空では方向感覚が駄目で、タブレットのナビでやっと行きつく。車の停車場所、対向車等、結構時間を取られた。長い距離をやはり覚え切れてない、歳のせいか
神社右横の道を北上すると今城幼稚園・小学校を側を通り突き当るので左折、次を右折して赤穂線を越え、直ぐ左折突き当りを右折して進むと左手に石段、前に空き地があるので車を置いて参詣する。(距離がありそうなので本来は車道を通るつもりだったが?これまでの経験で冬場と風の強い後は車道に結構大きな木が倒れていることがあり、歩く方が無難なことが多い)
大富八幡宮
由緒:当社の創建年代は、嘉暦年代(1326〜1329)児島高徳の臣、大富太郎幸範が最も崇敬し、願主となり本社を改築し大宮八幡宮と称した。大富太郎幸範公は児島高徳、今木太郎等と共に船坂に至り三石(現在の備前市)において戦死、遺物を大富村に修め大冨八幡宮の境内末社として若宮神社を創立した。明治44年11月15日、郷社豊原北島神社に合祀されたが昭和21年11月15目に、氏子、崇敬者の熱望により郷社豊原北島神社から分離された。
御祭神:譽田別天皇、息長帶姫命、比め大神
先ほどの十字路迄引き返し、右手に進んで69号へ、右折して進み、大富信号を左折川沿いに進み、右手に『山根』の標識の橋の反対へ右折し、進むと宗三公会堂の先右手にこんもりとした木々の場所
天津神社
由緒:本神社は文亀2年(1502年)1月6日夜亥刻、山城国明現山から勧請し、明現様と称して人々の崇敬が篤い。天文元年(1736年)11月6日、池田内匠頭、御鷹狩の節御参詣の記録がある。秋の大祭に際し、村中総出で径30センチくらいもある大注連をない、鳥居に張る。
御祭神:天御中主命
69号迄引き返し、橋を渡りに方向へ進み、十字路を右折、Y字路手前の広めの路肩に車を停め参詣道を登って行く。(Y字路正面に公園と小さな崖、その上に石碑、そしてY字路を右手に進んだ少し先左手に参詣道)
八幡宮
由緒:本神社の創建年月日、由緒等は不詳である。備前国古社128社の1社で、藩主池田氏が崇敬し、社領として毎年米3石4斗7升の寄進が明治3年まであった。祭礼の夜、鎮座地宮山に青年団員の手で高く掲げられる12張りの提灯の明かりは、遠く小豆島からも見えたという。以前は、福中下(山根)の青年団員の手で12張りを掲げていたが、現在は青年団員の減少のため、宮総代が協力して掲げている。
御祭神:神功皇后、応神天皇、玉依姫命
次の神社を参詣した後神社の北側から車道を通るつもりだったが中止
元のY字路へ引き返しY字路を左へ直進し、突き当りを右へ進んで行くと『長寿の郷邑久』その先左手に鳥居
不明神社
由緒、御祭神共に不明
ゴルフクラブ前を右方向へ進みと前方に三叉路、右折し手進むと前記『八幡宮』、左折して北へ、突き当りの角に石柱
日吉神社
由緒、御祭神共に不明
神社跡?赤い鳥居が捨てられている?何かよく分からない
前の道を真っ直ぐ東へ進み、川に突き当ると左折し、進んで行った先に
岡八幡宮
由緒:本神社の創立年月日については、貞享4年(1687年)の記録に「鎮座ノ年紀ハ遠カニシテ暦数ヲ知ラズ」とあり、詳かでない。また、岡氏・福間氏ら惣氏子が神殿の荒廃を歎き再興を図り、元禄5年(1692年)には舞殿一宇を建立したという棟札がある。社領二石二斗。「岡八幡宮」と称している。昭和40年12月、本殿の御屋根葺替。昭和55年10月、幣殿、拝殿改築。
末社の一つ池岩神社は、通称「お祇園様」として旧暦6月14日の祭日には、昭和19年ごろ支で青年団員を中心にダシ(史上伝説上の人物や名場面を実物大の人形で再現)を飾っていた。東部落と西部落がダシを競い合って賑った。今も幟旗を翻し、花火を打上げる。屋台店が来て、近郷の崇敬者も多数参拝し、夏祭としてにぎわっている。
御祭神:神功皇后、応神天皇、玉依姫命
神社の下側川沿いの奥に神社あり合社されているのか?
最近多いのだが、駐車場有にもかかわらず鎖が張られ入れない処が多い、多分関係ない車が長時間駐車しているのであろう!困ったものだ
本来進むつもりの69号が工事中で前面通行止め、北へ廻り橋を渡って川沿いに北上、しばらく進んだ先ある橋を渡り東に進むと69号へ(今回は通行止め-川を渡る69号へ左折して北方向へ進み、駐在所表示を左折し進み)、前方『介護老人保健施設邑久ナーシングホーム』先を進み橋の横『峨城山』入り口を表示に従い進むと神社前に着く。
王持八幡宮
由緒:社伝によると延文5年(1360年)4月、播磨龍野城主、脇坂久左衛門尉源忠典が神託によって豊前国から八幡宮を勧請して社殿を創建した。
当社は仲哀天皇の皇子応神天皇を首座に祀ってあるので皇子八幡宮と言っていたが、文録元年(1592年)4月、豊臣秀吉朝鮮征討の時に、其の武将、森忠政がこの宮山に来て「本社は三韓を降伏せし大神なれば」とて暫く滞在し、戦勝祈願をして峨城山と変えた。その時、藤井神主に、永代、森忠政「王を保ち守護すべき様」下命して、以来皇子を王持とし、忠政凱旋してから報賽として天正15年(1587年)8月8日、唐面と上り龍下り龍絵馬二面を奉納した。
池田藩政時代は社領三石四舛、明治43年5月20日箕輪甲山の八幡宮(嘉吉2年(1442年)3月、上笠加氏神の第一神子の薫女、神託により、国主宇喜多直家に出願して王持八幡宮の分霊を祠っていた)同年同月日、北池字宮の前の八幡宮(永享3(1746年)年6月宮内少輔原田信蕃、山城国男山より勧請)をそれぞれ合祀した。
御祭神:神功皇后、応神天皇、仲哀天皇
69号へ戻り、橋を渡り進み、再度橋を渡り、東に進み、寺横を北上、突き当り十字路を左折し進み、突き当りを右折し進むと左手に見えてくる
土戸八幡宮
由緒:本神社の創立年月日、由緒などは詳かでない。「備陽国誌」に「土戸八幡宮」とあるのは本神社のことで、社領一石であった。昭和62年本殿御屋根を銅板で葺き、幣殿、拝殿改築。祭礼当日、境内で子ども相撲が行われる。
御祭神:神功皇后、応神天皇、比め大神、息長帯姫命、品陀和気命
元へ引き返し、69号を北上し、前方橋を渡り右折してて83号へ、東へ進むと左手に
片山日子神社
由緒:当社は延喜式神名帳に伊勢国鈴鹿郡片山神社と同神とある。備前国神名帳には従2位片山日子神社とある。往古現在の社地前方の神山に鎮座していたのを、後冷泉天皇、天喜3年(1055)乙未8月、勅により現在の地に遷座したと伝えられている。明治6年郷社に列格。明治40年1月、神饌幣帛料供進神社に指定された。
御祭神:片山日子神
川沿い(83号)東へ向かう信号の先の橋を渡り、前方の小山を目指す、右折して進み、左手坂道を登る(長船スポーツ公園北)
木鍋八幡宮(松尾神社)
由緒:木鍋とは木閇の訛伝で、木閇は気陪で、豊受の受と同じ意で、五穀を守護し給う縁由である。木閇宿禰命は、大和国広瀬郡木瓶村に御住居になっていたのを土師村に奉祀し、木閇神社と称した。人皇第49代光仁天皇の宝亀3年(772年)正月、備前守藤原朝臣雄依が神託を蒙って大和国奈良郡から八幡宮を勧請し、木鍋八幡宮とした。本神社は、癇疾の者に霊応著しき神徳がある。明治40年10月神饌幣帛料供進神社に指定された。
御祭神:木閇宿禰命、大山咋命、品陀和気天皇、息長足比売命、比売大神
またしてもバッテリ切れのため急遽参詣は中止、天気も曇りであまり先まで続ける意志は強くなかったので中止、今日は元々が湿地とか海とかそういう場所柄のせいか、元島みたいな感じの場所が多かった。